J humind association

人生をロールプレイングする/『生き直す』という新しい選択肢

『個が立つ和の共同体社会』という
新しい自分の在り方の創建と
優しい人との繋がり方

Proposal to live as RPG

弱さに厳しい生きづらい社会を変える為には

この世の中は全て、表があれば裏があります。

 

陰陽、明暗、正邪、善悪、寒暖、健康不健康、得手不得手、清潔不潔・・・

 

挙げればキリがないほどの対称の存在があり、またそれはコインの裏表があるように表裏一体(難しい言葉で言えば『重畳』)で同時に存在します。

 

 

 

今回は【正しいと間違い】を題材に話を進めていきます。

 

 

正しいとは何でしょう。

jhumindassociation.hatenablog.com

前回の投稿にも書きましたが、正しいが万人受けする答えは見出すのには難しいことです。

 

では、間違いとは何でしょうか。

これは非常に難しいことですが、ここで一つの例文を出して考えてみましょう。

 

《 例文 》

Aくんはいつもせっかちで、人を押し退けてでも自分が前に出ようとする自分勝手な小学生で、みんなから嫌われ者で、先生にいつも怒られる男の子でした。

ある時Aくんは妹と一緒に学校から帰る途中、1台の車が自分立ちに向かって猛スピードで突っ込んでくるのをいち早く見つけ、妹を押し退けて自分が盾になり、Aくん自身は正面から車に追突されました。幸いAくんはその時たまたま妹のランドセルを背に、自分のランドセルを胸に着けていたので、大きな外傷も無く、事なきを得ました。

 

 

Aくんは日頃から人の迷惑も考えずに誰彼構わず押しのける癖があり、友達や先生からはその行動は間違っていると注意される子でした。

しかし、妹だけでも無事に救おうと自ら盾になる為に押し退けた行為、これも間違った行動だったでしょうか。

 

 

同じ押し退けるでも、状況によっては注意指摘され、賛美される事もある。

 

間違っているというのは、時に正しいに変わる事もあるという事です。

 

 

テロや私怨の犯罪などは間違った行為に違いありません。ですが、なぜ加害者はそのような行為をしたのか。そこに焦点を当てる必要はないのでしょうか。これは情状酌量の為ではなく、同じ思想を生まないようにする為のという意味でです。

 

加害者には加害者なりのその行為に及んだ理由が必ずあります。理由が無いという供述であっても、何の心境の変化もなくそのような行為に及ぶなどという発想には至らないはずだからです。

 

世間に見放された、社会に追い込まれた、自分の正義を貫いた・・・自分勝手な発想から犯行に及ぶケースが殆どでしょう。

 

 

では、何故そのような行為に及ぶに至ったのか、そこを少し考えてみましょう。

 

 

まず、快楽主義的な犯行は認識に問題があるとバッサリ切ります。これに関しては認識を改めなければ解決しません。

 

 

大体の犯行は、何かから逃げたい、何かを変えたいという思いから来るのではないでしょうか。

 

 

〇あいつが居なくなれば私はもっと評価される

〇あいつのせいで私は破滅した

〇あの職場に居たせいで私は心が病んでしまった

〇あの国が無くなれば自分達が自由になる

 

 

このように、そうせざるを得ない追い詰められた状況の結果、犯行に及ぶしかないという選択肢しか思い浮かばなかった人が加害者となっていくのではないかと一つの仮説を立てます。

 

 

 

さて、この仮説を元に話を進めていきますが、その人達は何故追い詰められる迄に至ってしまったのでしょうか。

 

自分1人や自分達だけでは立ち向かえないという弱さのせいでしょうか。

 

 

 

初めの対称性と表裏一体の話に戻りますが、強い人間も居れば弱い人間も居ます。

 

自分の悩みを話せる人も居れば、自分の弱さを見せれない人も居ます。

 

また、自分の弱さを出せる環境もあれば、それを許されない環境もあります。

 

 

 

ここで問題です。

 

人が弱い事は正しいのでしょうか。

間違っているのでしょうか。

 

人間はいつも強いわけではありません。

またいつでも自分をうまく表現出来ない人も居ます。

 

健常者も居れば、体が不自由な人も居る。

 

 

 

今の世界は、失敗や弱さを認めてくれる優しい社会でしょうか。

 

失敗は咎められ、弱い者は強い者に従う。

 

まだまだそんな世の中ではないですか??

 

 

 

ここでまた、一つのストーリーから考えてみましょう。

 

子育てに例えるとわかりやすいですが、新生児は言葉が話せないので、笑顔や泣く事で自分を表現します。

一部当て嵌らない人も居るかもしれませんが、大体の親はそれを優しい表情でどちらも受け入れ、大きな心で受け取り、支え、育てます。

 

では幼児に成長したらどうでしょうか。

言葉のキャッチボールが出来るようになると、途端に親の正しさを子供に押し付け始め、特に男の子に対して多いかもしれませんが、泣いたり弱音を吐くと怒る親が新生児の時よりも増えてきます。

 

どんどん成長して、成人したとしましょう。

弱音を吐く事も泣く事も許されなかった子供が大人になりました。

 

自分の弱さを出すと怒られるという無意識の恐怖から、人に悩みを打ち明ける事も出来ず、自己表現する事もなかなか難しい性格に育つでしょう。

 

そんな子が、社会に出て、始めてやる事なので失敗して当然なのに、頭ごなしに怒られ、社会不適合者の烙印を押されたとしたら・・・その子は誰を頼りに出来るでしょうか。

 

もはや頼る事すらもう選択肢にないかもしれません。

 

その子は、果たしてどんな心境でしょうか。選択肢は…一体どんなものが思い浮かぶでしょうか。

 

 

 

残念ながら、いくら嘆いても親と生活環境は余程の事が無い限り変わる事はありません。

ですが、保育園や幼稚園から始まり、小学校・中学校・高校・大学・専門学校・バイトや職場などという環境では、家庭環境よりも広がった社会生活を送ることが出来ます。

 

ですが今も昔もあまり変わる事はない、偏った学力だけ・営業成績だけを評価する競走社会、授業中にトイレに行くと言い出しにくいクラス環境、強者が弱者を支配する友達・職場内の人間関係など、なかなか結果が出せない人や晩年開花型の人間・いくら事務能力が破格に優れている人でも、非常に低い評価しか与えられない、強者や早い者勝ち・多数派、立場や権力者が幅を利かせる何とも生きづらい社会が今も多く存在しているのが現状です。

 

 

 

電車で席を譲る姿など、たまに人目を気にしない勇気ある人が出来るだけで、他の人は知らんぷり。

 

障害を持つ人を迫害する事なども未だにあります。

 

 

こんな優しくない社会では、人はいつも強くなければいけない。気が抜けない。心休まる事はありません。

 

 

 

 

人は強さも持ってあれば、誰もが弱さも持っています。

 

怒りたい時もあれば、叫びたい時も、愚痴りたい時も、逃げ出したい時だってあります。

 

そんな人間のマイナスも、優しく受け入れてあげる世の中が訪れたら、自分も生きやすくなりませんか??

 

プラスばかり求める現代社会は、本当はストレス溜まりませんか??

 

 

強さが正しい、弱さが間違っているということでもない。

どちらも認めてくれる。

そんな優しい社会は理想的ではありませんか??

 

弱さを認めてあげる度量を1人でも持てるようになれば、人に優しい社会が生まれ、悩んでいる人や追い詰められている人に声や手を差し伸べる事も出来るのではないしょうか。

 

そうしたら、1人で抱え込んで爆発してしまうことも無く、みんなで支えあって生きていける社会になっていくのではないでしょうか。

 

 

1人の問題はみんなの問題。

みんなの問題は1人1人の問題。

 

一が全、全が一

 

このような考え方が浸透していく事を、1人1人から始めていきませんか??

 

 

他人を変える事は難しいですが、

自分のアクションがいつもと変われば、必ず違ったリアクションが返ってくるはずです。

 

 

小さな事から、ゆっくり、コツコツと、あなたの周りに優しい変化を生んでいけるのは、あなたの行動の変化一つからだと私は思います。

 

 

 

私自身も周りが、そして自分自身が生きやすくなり、人生をみんなで楽しく過ごしていく為に、私も日々努力していきたいと思います。

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伝えたいのに伝わらないのはなぜか

 

jhumindassociation.hatenablog.com

の続きです。

 

・他者意見を受け入れつつ、自己発信も受け入れてもらえる人間関係は実現可能か。

・あるいは、他者と自分の意見はいつまでも相容れないのか。

 

 前回は、文末でこう締めました。

 

今回は発信する側の視点に立ち、

『伝えたいのに伝わらないのはなぜか』

テーマに話を進めていきたいと思います。

 

 

人はそれぞれ、判断基準や価値観が違うというお話は

前回の投稿で触れました。

 

違う意見を持った同士が交流する時、

相容れる事が出来ないこと、

つまり相手に伝わらないことは、

仕方のないとあきらめることしかできないのでしょうか。

 

 

それを探っていくために、

自分の知識見聞とはいかなるものなのか、

について考えてみることからはじめましょう。

 

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 自分の判断基準は何によってできているのか

現代は自分の知りたい事がすぐに調べられ、

子供までもがインターネットを利用する程の情報社会になってきました。

 

うちの3歳の息子もiPadを使いこなし、

youtubeノンタンアンパンマンの動画を自分で探して見る事がもう既にできます。

気が付くと、私のyoutubeの履歴がそれらで埋め尽くされていて、

びっくりすることもしばしば。

時代の変化を感じざるを得ません・・・

 

 

私達が持つ情報は、大きく2つに分類出来ます。それは、 

⑴ 実体験から得た『経験』

⑵ 人やインターネットなどで見聞きした自ら実証していない『不確実な知識』

 

実体験からの経験は、自分が経験した事を他者は経験する事が出来ないので、

理解はされても「正しい」と捉えられるかについては不安要素があるものです。

 

「交通事故に遭ったことがある」という人がもし複数居たとします。

交通事故という同じ経験をしていても、

怪我の状態やその時の心境は十人十色なのは明確です。

 

経験の正しさを主張しようとした場合、

人との違いを見つけ合って、

各々の持論展開で相手を否定する事しか方法がないので、

相容れない結果を生んでしまうでしょう。

 

自ら実証していない不確実な知識については、どうでしょうか。

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かの有名な聖徳太子は、

私達の年代では男性であると当たり前に思い込んで来ました。

(そもそも性別は教えられていない)

が、実は女性だった説もあるとか。

それ以前に、本当に実在していた人物かも怪しいという考え方もあります。

 

『いい国作ろう鎌倉幕府』でお馴染みの、

1192年の鎌倉幕府のはじまりは、もはや間違っているという認識に変わってきました。

 

食べ物で言えば、

豆乳ダイエットなどで健康に良さそうな大豆は、実は体に悪いという説もあります。

※ あくまで個人的に調べた結果、インターネット上に書かれていたものを抜粋しています。 

 

 

 

 

 

この情報が溢れる今の世の中、

何が正しくて、何が間違っているのか、

何を信じ、何を避けるべきなのか、

の判断が本当に難しくなってきたと思います。

 

報道は情報操作され、本当の事はひた隠しにし、

どうでもいい芸能ニュースなどを全面に出して風化させることなど

もはや誰もが知っている当たり前の手法です。

 

私達は、信憑性のない情報に躍らされ、

その分野に初めて出会った時の知識が、その人の当たり前になり、

実証してもいない不確実な情報を根拠に、

相手の意見を否定したり、覆そうとしたりしていることはないでしょうか。

 

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日々タレ流されている情報の中で、

私達が、”絶対に”正しい答えを見つけ出すのは

不可能です。

 

(子供の頃、『絶対』という言葉を良く乱用して、

自分が人より知っている事が多いんだという事を、

自分より人生経験が圧倒的に多い親に使っていた事を思い出し、

なんて自分は可愛らしい子供だったのだろうと思い返していました。・・・

ネ…ネタですよ!)

 

前回の投稿にも書きましたが、

基本的に人との会話は、

『 自分以外の意見との遭遇によって分かる「 自分の判断基準 」を知る事 』

を繰り返して行っているのです。

 

 

ここで今日のお題に戻りましょう。 

伝えたいのに伝わらないのは何故か。

 

様々な環境・状況・思想によって多様な答えが存在する中で、

あなたが手にしている情報は、果たして正しいものと言いきれますか。

芸能人や博士などといった人達の知識見聞なら、正しいでしょうか。

 

天動説から地動説へのパラダイムシフトは、常識が根底から覆りました。

スマホプロジェクションマッピング

AI( 人工知能 )の生活・職場への参入など、

20年前の常識では想像も出来ない現実が今あります。

人々があたりまえとしているものは日々更新されています。

 

 

ここで今一度、自らに問うてみてください。

 

自分は「万人が『正しい』と納得する確実な情報・知識

を持っている」という自信はありますか?

 

 

 

 

 

わたしは、

「そんな自信は全くない」と言いきります。

 

私が人に伝えている事は、

人類137億年の中でのほんの一瞬の、

明らかに偏った経験からのほんの1つの知識、経験、思想である、

と認識しているからです。

 

もし仮に「これが正しいんだ!」と思って人に伝えたとしても、

相手には相手の積み重ねてきた自分とは違う人生で

見聞き経験してきた積み重ねがあるので、

違った答えが返ってくるのは当然の事だと私は思っています。

 

誰だって、人の意見を無理やり押しつけられるのは、

気分のいいことではないのではないでしょうか? 

 

 

ここまで考えてみて、

自分が人に伝わって欲しいと願う時、

何をすればいいのが見えてきませんか?

 

自分とは違う、相手の意見と出会った時、

受容する寛容さを持つための突破口が見えるのではないでしょうか。

  

 

「お互いの知識や物の見方を共有出来ること」

これがコミュニケーションだと私は思っています。 

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伝えたいことを伝えるためには、

私に"絶対"はないんだと、自己顕示欲を捨てて、

(たとえ、それが今の自分が持っている経験知識から見た時には、

考えられないほど真逆の意見だったとしても)

「相手から、自分にはないものがプレゼントされたという事実」

そこに感謝をする関係性が持てたら、

同時に相手も、私の意見を一つの参考事例として

受け入れてくれるのではないでしょうか。

 

相手に伝えたいのなら、まず相手から伝えられることを。

受け入れてほしいのなら、まず自分が相手を受け入れることを。

先に出来るようになってしまえば、

自ずと相手も同じことを返してくれる会話の循環が育まれます。

 

結果、

他者意見を受け入れつつ、自己発信も受け入れてもらえる人間関係は実現可能になります。

 

 

とは言っても、

なかなか人との対話の中で

自分の固定観念や判断基準を一旦置いてコミュニケーションを取ることは

簡単な事ではありません。

 

どうしても、人は習慣として自分の正しさから抜け出せずに、

相手との違いを探し、無意識に否定しながら会話してしまうものです。

今までずっとしてきたコミュニケーションのパターンを、

力ずくで、変化させるのは大変なことです。

 

全くそうは思えない。という相手の意見を無理やり受け入れなくては!

と思うことで、新たなストレスが発生してしまうこともあるでしょう。

 

人との優しい繋がり・関係性を自ら創っていくために必要なこと、

自分の固定観念や判断基準を一旦置いておくために必要な変化とはなにか、

 

そのポイントさえ分かれば、人は柔軟に変化する事が可能となると私は思います。

人は何の為に多様なものと出会うのか

生きていればいろんな出会いに遭遇します。

人・本・風景・飲食物・お店・コミュニティ...


私達は日々の暮らしの中で、気に止めていないだけで、

多くの出会いを経験しています。

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では、出会いとは一体何の為に行われているのでしょうか。

こんな発想自体普通の人はいちいち考えないと思いますが、

日常生活を今よりももっと刺激的にする為に、一旦深いところに入ってみましょう。

 

今はあなたの目の前、この画面よりも視点を上げてみると何が見えるでしょうか。

部屋かもしれない、外かもしれない、はたまた車内かもしれません。


その景色を見て、この世の中の全ての人が、

あなたと同じ発想を思い浮かべるでしょうか。

 

視覚的な慣れやその環境に対する先入観、どんな状況か把握できるだけの情報量などによって、人の感じ方は様々です。

 

映画や音楽が良い例で、創作者は自分の作りたいと思う作品に沿って創りますが、観る人にとってはそれは全く関係なく、その時の心境や状況がそれぞれ違う受け取り手の数だけ感想があり、それは監督や演者の思い入れとは全く異なったものとなります。

 

 

初めの疑問に戻りましょう。

出会いとは一体何の為に行われるのでしょうか。

 

少し間を開けますので、「これかな」と思う答えを出してみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、どんな答えに辿り着いたでしょうか。

 

既出ですが、価値観は人によって異なるものなので、全員同じ答えになる事はありません。

ですから、そこに明確な答えというものは存在するはずが無いのです。

人それぞれが出した答えの数だけ、それが全て答えなのです。

 

人や本の解釈などの答えや定義を否定したくなるのは

『自分の価値観とは違うという事を伝えたい』

ただそれだけの行為なのです。

 

ただそこに、【自分の意見が正しい】という思想の強要が入りやすいので、意見の衝突が生まれて関係性の不和に繋がりやすい、という事が起こり得るのです。

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以上を踏まえて、私なりに「出会い」を定義するならば

 

『 出会いとは、自分以外の意見との遭遇によって分かる

「 自分の判断基準 」を知る事 』

 

というものと考えます。

 

 

違う意見と出会うと反発・否定する気持ちが生まれるということは、それとは異なった意見を自分が持っているということを自ら知るということになります。

 

自分がどんな考え方・感じ方を持っているのか

 

それが出会いを重ねる意味と言えるのではないでしょうか。

 

 

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では、他者と自分の意見はいつまでも相容れない関係性しか創れないのでしょうか。

 

沢山の考えや意見と共生共存する為には何が必要なのでしょうか。

 

 

その答えは・・・

 

 

 

【自らの判断基準を1度置いておけるか】

 

この1点に尽きます。

 

言葉で言うのは簡単ですが、それを実現する為には変化が必要です。

 

それが出来るか出来ないかで、コミュニケーションが劇的に進化します。

 

その方法を、私はお伝えできます。

 

 

 

 

『他者意見を受け入れつつ、自己発信も受け入れてもらえる人間関係』

 

 

そんな関係性の社会が当たり前になった時、ストレスも争いも無くなると思いませんか??

 

 

 

そんな理想社会の実現を目指して、私は日々活動しています。

 

ご興味ある方は下記からご連絡ください。

 

https://m.facebook.com/jhumindkito