個性やスキルは人と比べて評価されるものではない
得意な分野もあれば不得意な分野もあるのは当然のこと。
私達は今迄生きてきた人生経験の蓄積でいろいろなスキルや、興味を持つ分野や好きな食べ物や好みの異性のタイプなど、その組み合わせを世界で唯一同時に兼ね揃えた逸材です。
ですが、好きだから上手なのかと言えばそうではなく、得意だから誰よりも秀でているのかと言えばそうではありません。
人は他人と自分を比較し、良くも悪くも評価します。
あの人よりも凄い。
あいつよりは出来ない。
あの子よりはマシ。
あんなやつと比べたって話にならない。
その時の都合に合わせて秀でている人と比べたり、劣っている人と比べられたりしてきました。
その時評価をした人が相手をどう思いたいかで比べる対象を勝手に決めているだけです。
それはただの価値観の押し付けであり、あなたへの正当な評価とは言い難いものです。
学校では文部科学省が定めた学力や運動能力を基準に順位を付けます。工作や美術に至っては専門家でもなち担当教諭の判断という偏った采配で決められます。
平均基準より下回っていたら何なのでしょう。
そもそも学力や運動能力に個人差が出るのは、体型や骨格の成長に依るところもあるので非常に差別的になりますし、そもそも教えている教員の授業の成果結果が子供の成績であるというのは疑問に思える評価だという見方もできると思います。
子供の成長はどうでしょうか。
周りの子が立ち始めたのにうちの子は立つ気配すらない。
隣の子が言葉を話し始めたのにうちの子はまだだ。
子供の成長は人それぞれです。
それを知っているはずなのに、自分の個人的な主観で遅い、劣っているなどという発想を持ってしまう親が居るのは非常に悲しいことです。
子供の立場に立ってみてください。
出来ないことをやれと言われるもどかしさは、大人でもわかるはずです。
こうした環境などで子供から積み重ねられてきたもので、厄介なものの一つに、【自信の無さ】があります。
人から比べられて評価されてきたことに苦い経験をしてきた子供が多い中、それを自分自身で己にしてしまうという自虐的な行為が主な原因の一つとして挙げられます。
自信の無さが生まれるメカニズムはこうです。
『他者比較による自分への出来ないという固定イメージ』
人または自分自身で出来る人と比べ、自分には出来ないという思い込みの決め付けをしてしまい、行動する事が出来ないというものです。
ここで質問です。
他の人より上手に出来ないのと、あなたがやらないことは何か関係がありますか?
あの人よりも役に立たないなら、誰の役にも立たないというのは、その人よりも大きい評価が貰えずに、逆に怒られたり邪魔者扱いされるのが怖いからですか?
だったら、何もしない方がマシだと。
1度で出来ないなら、2度やればいいじゃない!!
上手くやれなくても、必死にやってそれでも怒る人が居るなら、そんな環境を選ばなければいい!
親や上司に頭ごなしに怒る人が居ますが、子供や従業員は悪気があってそれをした訳ではなく、そのやり方以外にいい方法が思い浮かばなかったからそうしてしまっただけのことなんです。
怒ってそれをやるなと言っても、他のやり方を教えなければ、それはただの横暴です。
初めてやる事なのでまた失敗するに決まっています。
人生経験が相手より豊富な親や上司は、同じやり方で失敗が成功に至った試しがありますか?しっかり出来るようになるまで同じ目線に立って導いてあげれば、必ず出来るようになるはずです。
怒って叩いて覚えさせるのは飼育であり、教育とはとても言えません。
幼児教育、家庭教育、学校教育、社員教育と、教育を唱うのであれば、教わる側の今の現在地をしっかり把握し、その人に合った教え方をするのが教育者ではないでしょうか。
自信が無く、自分が何も出来ないと思い込んでしまっている人に、私は言いたい。
あなたは確かに、ある分野では人より上手に出来ないかもしれない。
でもそれは、あなたの全てが否定されたわけではありません!!
冒頭でも言いましたが、あなたはあなたが世界で唯一同時に兼ね備えているその考え方や性格から、人とは違った発想力を生み出せるはずだから。
人と比べるのは、もう辞めませんか?
昨日の自分と比べて、あなたは今日、新しい何か手に入れましたか?
電車でずっと立ち続けて、疲れている人が座れるように頑張って立っていた。これだけでも人の役に立っています。
人から喜ばれないと実感出来ないかもしれません。
ですが、評価ものを期待して聞いても大体出来る人と比べられて落ち込むのがオチです。
あなたは変われます。
でも、変わるのはあなた次第。
変わりたいという勇気は、誰とも比べられませんよね。
あなただけが知っている、あなただけの苦しみ。
俺だって、私だって・・・!
そんな気持ちは少しでもないですか??
あなたの今迄と変わらない行動を見ていたら、それを見る人からの見方は変わりません。
でも裏を返せば、少しでも変わった行動を見せれば、それを見た人の反応は間違いなく変わるはずです。
踏み出す勇気。
これは誰と比べて上手にする必要もない、ただあなた自身が動き出せばいいだけです。
私は、この世の中に役に立たない人は居ないと思っています。
当たり前、常識、基準、平均、暗黙のルール・・・
自由や尊厳が奪われて生きづらいだけの決まり事なんかに縛られていきるのは息が詰まる!!!
目が見えない人ばかりの世の中であれば、目が見えない事に疑問や劣等感を抱くことはありません。それは目が見える人が哀れんだり、気遣える社会でないから、劣等感という発想が生まれるのです。
平均というものは存在しますが、すべては出来る人基準で評価されているのが現代です。
こんな優しくない世の中、本気で変えたい!!
私が目指す社会。
それは、
【個が立つ和の共同体】
1人1人の個性やスキルを活かせ合い、出来ないことは出来る人が補い、支え合って、みんなで生きていく社会。
ありがとう。
そんな言葉な要らないくらいにお互いがお互いを思い合い、
もう今日はこれぐらいで終わろうか。
どちらかが多くしてあげたとか、そんな事を気にしないくらいに《お互い様》が浸透した世界にしたい。
私はそう考えています。
比べなくていい。
あなたはあなたの出来ることをすればいい。
だって、1人で全部出来ちゃったら、周りの力を借りなくても生きていけるから独りぼっちだよ??
出来ないぐらいでちょうどいいよ。
さぁ、出来ることから始めていこう。
自分と他者は違う、それを認める社会作りの為に必要なこと
ちょうど10日前
終電に乗って家まで歩いて帰っている途中
高速の高架下の道路を渡ったところにある公園で
亀に出会いました。
その亀は
力強く前に向かって進んでいました。
・・・車道に向かって…
見過ごすことは簡単な事です。
亀が居たことなど明日になれば忘れていたでしょう。
でも、周りに川も池もないような場所で、それでも力強く前進する『生きよう』とするその力強い意思のある生命が、もしかしたら命を落とすかもしれないと思ったとき、私はその人生に責任を持つ覚悟と共にその亀を家に連れて帰りました。
亀の生態や生活環境などをあらゆるところから情報を入手し、何が正しいか分からない中でも、多数の同じ内容のものと自宅の環境に合わせたものをピックアップし、その情報から妻もペットショップで亀を飼っている店員さんに出会い、何とか生活環境を整えました。
人間の育て方であれば、生態や生活環境のことなど調べずとも分かるのですが、自分と違う体感や食生活・世界の見方なので、調べなければ育てられないというのは当然のことですよね。
ご存知のように亀は変温動物。
人間の体感で寒ければ暖め、暖かければ冷やせばいいという環境下では非常にストレスがかかり病気になります。
しかも水陸両方の環境が必要な為、水槽だけ用意すればいいというものではないということなど、人間とは大きな違いがあることを知りました。
生態が違うからこそ違いを知ろうとする。
では、人間同士ではどうでしょう。
体のつくりは大なり小なり違えど構造は皆ほぼ同じです。
が、心は皆同じでしょうか。
価値観やものの捉え方や感じ方、発想力や状況によって出てくる感情などは、人によって全く異なります。
生活習慣や今までの人間関係から蓄積してきた『当たり前』も当然十人十色です。
でも何となく
【自分の当たり前が常識】
と思ってしまっていることはないでしょうか。
例えば、
《朝起きて歯磨きをする》
ということを例にしてみましょう。
私はまず朝起きてする事が歯磨きです。
寝ている間に乾燥した口腔内は雑菌の温床となっているので、そのまま食事を始めると全て体内に取り込んでしまうと嫌なので、食事や飲水の前に必ず真っ先に歯を磨き、食後は口を濯ぐようにしています。
ですが、食後のエチケットとして食後に歯を磨く人も居るでしょう。
入浴でも同じように、私は体を洗う前に湯船に入ります。洗体後に入ると一番風呂であっても浴槽に残った雑菌を体に付けてしまうという発想があり、入浴後にシャワーで流すだけでは取り切れないと嫌なのでその順序にしています。
ですがこれも洗体後に入るという方も勿論居るでしょう。私も子供の頃はそうしていました。湯船で温まった体のまま布団に入ると寝入りがいいですよね。
このように生活習慣とは、発想や主導権を握っている人の作った暗黙のルールなどによって変化し、それは必ずしも人と同じとは限りません。
どれが正しいわけでも間違っているわけでもない。
生きてきた境遇が各々違うので、統一されるはずがないのです。
学校・会社・社会では、そんな多様な価値観や生活習慣を持った人間の集まりなので、その中では決まり事を作られ、いつの間にかそれが普通になり、集団で遵守していく習慣から新人さんも自然に暗黙のルールとしてら従うシステムとなり、そのコミュニティの秩序や安全を守る為に役立っています。
・・・ん?…守る為?
ちょっと立ち止まって考えてみましょう。
皆さんは、今の多様なルールや決まりの一つ一つの意味をご存知で遵守されているでしょうか。
サラリーマンが仕事に行く時はスーツ。
これが当たり前。
就業規則にスーツ着用義務についての記載を見たことがありますか??
『仕事をするに適した服装』というような記載はあるでしょうが、一つに限定した記載はおそらくされていないことがほとんどではないかと思います。
それなのに、夏になればクールビズでネクタイの着用は義務付けないというような、ワイシャツネクタイもいつの間にかルールとして規定されているような扱いになっていることに気付きませんか??
誰が、何の為に、どんな理由で作ったルールなのか。
それも知らずに私達はいつの間にか自由を奪われ、それを考えることもなくなり、ただただ周りがそうだから自分もそうしている。
そんな状況に自分が置かれているということは、案外思ったより多いのではないか・・・
こんな発想は、少し考えたらそんな環境ばかりに自分が居るということに気付けるのではないでしょうか。
日本の義務教育では、世界でも評価される程に集団行動を重視した生活環境にあります。
集団と同じでなければ不安になる。
このような無意識の価値観を植え付けるほどに、集団を乱す者には厳しく、揃っていることに重きを置く。これが美学だと言わんばかりに。
いつしか子供の頃から人目を気にし、人と違うことが周りからも批難されるのを環境から学ぶことで、個性を出すことすら許されないと思い込み、ストレスを感じながらも我慢することを覚える。
これが今の日本人の基本の行動指針となっており、『守る為のルール』ではなく『知らない誰かの主観で作った、その人の意図を守らせる為に存在しているルール』ということに気付くこともないまま、集団行動から外れることを良しとしない精神が根底にあるので、元々あるものに疑問もなく、贖うこともない従順な人間を義務教育の頃から量産している。
これが今の日本という国です。
こっちの方が正しいと思うのに…
それは明らかに間違っているでしょ…
そんな発想も出てくるけれど、みんなの和を乱したり、白い目で見られることを恐れるあまり、仕方なく我慢して自分の意見を押し殺すことを強いられているのが、今の現代社会の姿そのものです。
1人1人、考える力もあれば、言いたいことだってある!
何もかもに満足している生活であれば、幸せを探求することなんてない!!
自由が欲しいから、拘束され我慢を強いられる仕事や学校から逃げたくなる!!!
違いを認め、縛るためのルールではなく、必要最低限の秩序を守るためのルールだけあれば、もっと人は個性を活かし、その中で生まれた新たな可能性を手に入れることができる。
日本は他国の技術を学び、モノづくりでは性能や安全基準で高い評価を受けています。それは集団行動の賜物であるのは間違いないですが、先進国の中でも新しい産業が生まれない原因は、そういったところにもあるのではないでしょうか。
新しい産業や新しい文化を発信していき、世界から認められる日本を育てるためには、まずは新しい教育の着手が必要だと私は考えます。
子供に1番発達する想像力と創造力。
これをもっと体や心で表現出来るような教育。
そして何よりも、人間関係の基礎であるコミュニケーションに関することや、思い込みや決め付けをすることのなく、多様性を自分のものとする柔軟性を育むことが出来れば、地域コミュニティの繋がりや地方の活性、そしてこれこそが日本ブランドとして誇れるものとなるのではないでしょうか。
人間と亀は違い、人間と人間も違う。
集団行動も大切ですが、それは違いを正すためではなく、違うからこそ気付き合い、高め合い、生み出していけるということにも目を向けていくことも必要ではないかと考えます。
弱さに厳しい生きづらい社会を変える為には
この世の中は全て、表があれば裏があります。
陰陽、明暗、正邪、善悪、寒暖、健康不健康、得手不得手、清潔不潔・・・
挙げればキリがないほどの対称の存在があり、またそれはコインの裏表があるように表裏一体(難しい言葉で言えば『重畳』)で同時に存在します。
今回は【正しいと間違い】を題材に話を進めていきます。
正しいとは何でしょう。
jhumindassociation.hatenablog.com
前回の投稿にも書きましたが、正しいが万人受けする答えは見出すのには難しいことです。
では、間違いとは何でしょうか。
これは非常に難しいことですが、ここで一つの例文を出して考えてみましょう。
《 例文 》
Aくんはいつもせっかちで、人を押し退けてでも自分が前に出ようとする自分勝手な小学生で、みんなから嫌われ者で、先生にいつも怒られる男の子でした。
ある時Aくんは妹と一緒に学校から帰る途中、1台の車が自分立ちに向かって猛スピードで突っ込んでくるのをいち早く見つけ、妹を押し退けて自分が盾になり、Aくん自身は正面から車に追突されました。幸いAくんはその時たまたま妹のランドセルを背に、自分のランドセルを胸に着けていたので、大きな外傷も無く、事なきを得ました。
Aくんは日頃から人の迷惑も考えずに誰彼構わず押しのける癖があり、友達や先生からはその行動は間違っていると注意される子でした。
しかし、妹だけでも無事に救おうと自ら盾になる為に押し退けた行為、これも間違った行動だったでしょうか。
同じ押し退けるでも、状況によっては注意指摘され、賛美される事もある。
間違っているというのは、時に正しいに変わる事もあるという事です。
テロや私怨の犯罪などは間違った行為に違いありません。ですが、なぜ加害者はそのような行為をしたのか。そこに焦点を当てる必要はないのでしょうか。これは情状酌量の為ではなく、同じ思想を生まないようにする為のという意味でです。
加害者には加害者なりのその行為に及んだ理由が必ずあります。理由が無いという供述であっても、何の心境の変化もなくそのような行為に及ぶなどという発想には至らないはずだからです。
世間に見放された、社会に追い込まれた、自分の正義を貫いた・・・自分勝手な発想から犯行に及ぶケースが殆どでしょう。
では、何故そのような行為に及ぶに至ったのか、そこを少し考えてみましょう。
まず、快楽主義的な犯行は認識に問題があるとバッサリ切ります。これに関しては認識を改めなければ解決しません。
大体の犯行は、何かから逃げたい、何かを変えたいという思いから来るのではないでしょうか。
〇あいつが居なくなれば私はもっと評価される
〇あいつのせいで私は破滅した
〇あの職場に居たせいで私は心が病んでしまった
〇あの国が無くなれば自分達が自由になる
このように、そうせざるを得ない追い詰められた状況の結果、犯行に及ぶしかないという選択肢しか思い浮かばなかった人が加害者となっていくのではないかと一つの仮説を立てます。
さて、この仮説を元に話を進めていきますが、その人達は何故追い詰められる迄に至ってしまったのでしょうか。
自分1人や自分達だけでは立ち向かえないという弱さのせいでしょうか。
初めの対称性と表裏一体の話に戻りますが、強い人間も居れば弱い人間も居ます。
自分の悩みを話せる人も居れば、自分の弱さを見せれない人も居ます。
また、自分の弱さを出せる環境もあれば、それを許されない環境もあります。
ここで問題です。
人が弱い事は正しいのでしょうか。
間違っているのでしょうか。
人間はいつも強いわけではありません。
またいつでも自分をうまく表現出来ない人も居ます。
健常者も居れば、体が不自由な人も居る。
今の世界は、失敗や弱さを認めてくれる優しい社会でしょうか。
失敗は咎められ、弱い者は強い者に従う。
まだまだそんな世の中ではないですか??
ここでまた、一つのストーリーから考えてみましょう。
子育てに例えるとわかりやすいですが、新生児は言葉が話せないので、笑顔や泣く事で自分を表現します。
一部当て嵌らない人も居るかもしれませんが、大体の親はそれを優しい表情でどちらも受け入れ、大きな心で受け取り、支え、育てます。
では幼児に成長したらどうでしょうか。
言葉のキャッチボールが出来るようになると、途端に親の正しさを子供に押し付け始め、特に男の子に対して多いかもしれませんが、泣いたり弱音を吐くと怒る親が新生児の時よりも増えてきます。
どんどん成長して、成人したとしましょう。
弱音を吐く事も泣く事も許されなかった子供が大人になりました。
自分の弱さを出すと怒られるという無意識の恐怖から、人に悩みを打ち明ける事も出来ず、自己表現する事もなかなか難しい性格に育つでしょう。
そんな子が、社会に出て、始めてやる事なので失敗して当然なのに、頭ごなしに怒られ、社会不適合者の烙印を押されたとしたら・・・その子は誰を頼りに出来るでしょうか。
もはや頼る事すらもう選択肢にないかもしれません。
その子は、果たしてどんな心境でしょうか。選択肢は…一体どんなものが思い浮かぶでしょうか。
残念ながら、いくら嘆いても親と生活環境は余程の事が無い限り変わる事はありません。
ですが、保育園や幼稚園から始まり、小学校・中学校・高校・大学・専門学校・バイトや職場などという環境では、家庭環境よりも広がった社会生活を送ることが出来ます。
ですが今も昔もあまり変わる事はない、偏った学力だけ・営業成績だけを評価する競走社会、授業中にトイレに行くと言い出しにくいクラス環境、強者が弱者を支配する友達・職場内の人間関係など、なかなか結果が出せない人や晩年開花型の人間・いくら事務能力が破格に優れている人でも、非常に低い評価しか与えられない、強者や早い者勝ち・多数派、立場や権力者が幅を利かせる何とも生きづらい社会が今も多く存在しているのが現状です。
電車で席を譲る姿など、たまに人目を気にしない勇気ある人が出来るだけで、他の人は知らんぷり。
障害を持つ人を迫害する事なども未だにあります。
こんな優しくない社会では、人はいつも強くなければいけない。気が抜けない。心休まる事はありません。
人は強さも持ってあれば、誰もが弱さも持っています。
怒りたい時もあれば、叫びたい時も、愚痴りたい時も、逃げ出したい時だってあります。
そんな人間のマイナスも、優しく受け入れてあげる世の中が訪れたら、自分も生きやすくなりませんか??
プラスばかり求める現代社会は、本当はストレス溜まりませんか??
強さが正しい、弱さが間違っているということでもない。
どちらも認めてくれる。
そんな優しい社会は理想的ではありませんか??
弱さを認めてあげる度量を1人でも持てるようになれば、人に優しい社会が生まれ、悩んでいる人や追い詰められている人に声や手を差し伸べる事も出来るのではないしょうか。
そうしたら、1人で抱え込んで爆発してしまうことも無く、みんなで支えあって生きていける社会になっていくのではないでしょうか。
1人の問題はみんなの問題。
みんなの問題は1人1人の問題。
一が全、全が一
このような考え方が浸透していく事を、1人1人から始めていきませんか??
他人を変える事は難しいですが、
自分のアクションがいつもと変われば、必ず違ったリアクションが返ってくるはずです。
小さな事から、ゆっくり、コツコツと、あなたの周りに優しい変化を生んでいけるのは、あなたの行動の変化一つからだと私は思います。
私自身も周りが、そして自分自身が生きやすくなり、人生をみんなで楽しく過ごしていく為に、私も日々努力していきたいと思います。