J humind association

人生をロールプレイングする/『生き直す』という新しい選択肢

『個が立つ和の共同体社会』という
新しい自分の在り方の創建と
優しい人との繋がり方

Proposal to live as RPG

【個が立つ和の共同体社会体感の場創り】香川県のとある島に視察に行きました

この話を貰ったのは5月19日。

秘書の新潟出張に同乗する友人との会話から始まった。


香川県にとある島があり、その島に親族の家があるんだが過疎で何か出来ることはないかという話。
(それ以外にも沢山の物語がありましたが割愛します)

 


その話を聞いた時に、ハッと気が付いた。

私は今まで【個が立つ和の共同体社会】の構想や必要性は沢山語ってきましたが、それを実際に体感・体験できる場所がなかったということ。

フワフワした受け取りにくい話や考え方だけでは理解し難いものがあるし、どうやって現実的に実現可能となるのかという『目に見えた形』を作れてなかったなぁと。

 

 


そこで、ここにそれを作れないかという構想が思い浮かんだ。
以下はその概要です。

 

【志々島國創り計画】鬼頭案

私が提唱する新しい社会の在り方『個が立つ和の共同体社会』の実現を前提とした案となります。
それに必要な要素として、人が間を作らず壁を作ってしまっている現状を打破するために、教育課程では教えてこなかった『人間関係』を、勉学ではなく体験しながら自分の在り方を更新していける滞在型の村(テーマパーク)を作ろうと思っています。

人によって態度を変えたり、自分がいろいろな条件状況を理由に出来ないや無理を勝手に決め付けて、自分の可能性をフル活用出来ず、自分の人生なのに誰かのルールの上で生きていっているのが現代社会だと思っています。

誰とでもちゃんと自分自身の全てを表現し、正面からコミュニケーションをとっていく自分の在り方になっていくことで、自分の意見をハッキリと伝え、真意の循環ができる関係性を築いていける人になり、昔の村ぐるみで子育てをしていたような、人と人とが血の通った温かみのある地域社会をもう一度作り上げていけるようにしていくのが目的です。

インターンや自分探しの旅をするぐらいなら、ここに来てそこに住む人と何日か寝食を共にすることで、こんな関係性が理想的だなぁと思ってもらえるような村を創りたいと考えています。

ザックリとですが今のところの私の構想は以上のようなものを考えています。

 


この構想を、今回島民の代表2名にお伝えした。

返答は、『是非やってください。何でもお手伝いします。』とのことだった。

 

 

 

 

ここで今回視察に行った【志々島】について少しお話します。

1974年の航空写真(Wikipediaより)

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次にこれが現在の航空写真(google mapより)

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見てお分かりのように、家も畑も木に覆われてしまっているのが、写真と同様、視察に行った現状でもありました。

 

昔は島民が1000人居たこの島も、今は16人

 

過疎により平均年齢も超高齢化し、家や畑も管理する人が居なくなってしまったそうで、上記の写真がそれを物語っています。

 

 

島民の方との話し合いの結果、

 

●まず何をするにも必要なのは、草刈りや選定した木の伐採などの『開拓』からだということ。

●島民の方が昔創りたかった島としての構想と、私が創りたい島の活用方法とが見事に一致していたことから、今後は一体となって進めていくということ。

●平均年齢60歳オーバーだが、やれることは手伝うし、過去からの経験や知識は存分に使ってくれていいという、心の同盟が組めたこと。

●『花の島』と呼ばれた昔の島の在り方を復活させること。


などなど、沢山のミッションのフラグが立ちました。

 

 

さすが、【志】を冠する島。

大和魂・和心はまだまだ熱く、絶えることなく生き続けていたことが確信できた。


この場所から、日本に元気になっていってもらおう。

そして一つのモデルの完成と共に、こういった活動や場所が増えていくことを心から願います。

 


『そんなの無理だ』と決め付けて、やろうともせずに愚痴るのは簡単だ。

誰かが始めなきゃ何も変わらない。

私がやり始めます!!!

やり始めた人がいるからこそ、その支援・援助をしようとしてくれる人も出てきてくれると思ってます。

やりたくてもやれない状況、叶えたくても周りがそれを許してくれない現状もあるでしょう。

是非タイミング的に直接関われることがあるかもという方や、直接は無理でも何かしら支援したいという方何かやりたいという熱い思いがあるけど何をしたらいいか悩んでる方がいらっしゃいましたら、私のFacebookにまでご連絡いただければ有難いです。

 


直接でも間接でも、関わってくだされば仲間です。

皆さんと創っていく日本の幸せ土台創り。

世界に発信する【和心文化】の拠点の第一歩を、是非共に創っていきませんか?

【個が立つ和の共同体社会】実現が、なぜ今必要なのか ~アインシュタインや先人達の想いに報いる~

前回の投稿

からの続きです。

 

 


人類はいずれ自分の外に出ることを考えなければならないと思う

 

それは、今までの歴史の積み重ねで定義付けられてきた『自分』という壁を突破することと言い換えることができる。

 

 

自分とは何なのか。

 

どこまでが自分なのか。

 

 


これを改めて考えていく必要がある時代に突入しているようだ。

 

なぜかと言えば、今の問題意識は過去から今に蓄積によって生まれたものであり、既存の思考・発想で解決しきれないからこそ、問題として表在化してしまっているからだ。

 

アインシュタインの名言の中にある【いかなる問題も、それをつくりだしたときと同じ意識によって解決することはできない。】という思想から考えるならば、既存の現代人思考の外に出なければ、現存する如何なる問題も、解決できないところにまで来てしまっている、いうことであると考える。

 

今まで考えたこともなかった、自分の思考・発想の外の世界がどうなってるかを知りたい。

 

誰が創りだしたかもわからない常識や当たり前という狭い社会の中で生きてきた今までだったからこそ、その外があるという結論に達した今、それを知らずに問題だらけの既存のレールに沿った誰もがやっている人生の歩み方という見えない壁の中で一生を過ごすなんてイヤだと思った。


人間の探究心とは、誰かに言われて抑えられるものではない。

 

 

生を受けた瞬間から、人は死に向かって生きている。

生きていることが辛いなら、どうせ死ぬなら、なぜ今死なないのか。


答えは簡単だ。

生きてこの世に居たいから。

幸せになりたいから。

楽しい人生を過ごしていきたいから。

 

でも、今幸せかと言われたら、100%そうだなんて言いきれない。

 

だからこそ幸せとは何か、幸せになる為にどうしたらいいかを本気で考えようと思った。

 

生への執着が消えない限り、人類は諦めることはしない。

 

過去今までに幾人もの人達が、文字通り命を懸けて、未来の自分達に幸せの祈りを願って、託して死んでいった。

 

私達はそうやって、普段考えてもいないが先人達の想いを背負いながら今この世界に生かせてもらっている。

 

誰かがやらなければ、今まで死んでいった人達の想いが報われない。

 

このバトンを、自分の子供や今後生まれてくる未来の新しい命に、託したい形で渡せるように。

 

 

 

 

次回から、【自分とは何なのか】という根幹の部分について書いていこうと思います。

 

 

※追記

#進撃の巨人 から学んだ要素がこの投稿には盛り込まれています。

【個が立つ和の共同体社会】の実現していない今、どんな問題が起こっているのか ~アドラーの一つの思想に辿り着いた~

前回の投稿

からの続きです。

 

 

 

日本人には、古来より【和心】というものが無意識的に備わっている。

和心を表す英語はない。日本特有のものである。

 

例をあげるならば、日本では震災に見舞われる機会が多い。

震災時、日本人は学校の体育館などで集団生活を強いられるが、そんな中でも人は助け合い、気遣い合うことができる。

 

 

だが、残念なことに和心を持っているはずの日本人であっても、それを発揮することは有事の時以外では1年でも数えるほどだ。

 

天災であるなら人は団結できることもある。


資本至上主義社会の現代は、弱肉強食。強いものが弱いものを喰らう。その世界でずっと生きていくなら、自分が喰われる覚 悟も必要だ。だが、それでいいのか。

 

勝者しか生き残れないのがこの世界であるのならば、人間は何に敗北するのだろうか。何を脅威とすれば人は団結できるのだろうか。

 

 

国家間の勝手な政治的な要因で起きる戦争ではどうだろうか。

 

軍国主義的な考えであれば、人が人のために死ぬことが当然だと思っているのなら、理解してもらえるだろう。たった一人の尊い命が大勢の人を救うこともあるということを。人類が人類を自分都合で殺されることを見過ごせるということを。

 

だがその連鎖が何を生むか。貴方はその一人になれるのか。もし自分が当事者になった時、それを見過ごす他者を見てどう思うだろうか。

 


今のこの世界は残酷だ。


人がどれだけ残酷な扱いをされているのを目の当たりにしても、「自分じゃなくて良かった」と思うのが普通なのであれば、 自分は誰からも救われないだろう。

 

だが、それを知っているからこそ優しさを強烈に感じられる。もう、人が優しいということは歴史から誰もがわかっていることだ。


だからこそ、同じことを繰り返すのはそろそろ終わりにして、今から何をしていくのかを考えていくべきなのだ。

 

人間は、苦しみを糧にして自分を変化させることはもう何百年もやってきた。私達は既存の見方とは違った見方でこの世界を見直す必要がある。

 

 

 


私達の目に見えているものと、実在する本質は違う。

 

人に見えているものは、人間5感の中の「視覚」がキャッチできるものだけに限定される。

 

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≪ここからは少し雑学的な要素なので、飛ばしていただいてもいいです≫

視覚でキャッチできるものは電磁波と呼ばれる分類の中でもは波長が一定内である「可視光線」しか受け取れない。俗に言う虹色をベースにした光のことだ。

しかし、電磁波には波長の長短による分類がある。
可視光線より短い波長のものは、人体に悪影響を及ぼすものが多く、可視光線から近いものから言えば紫外線→X線→ガンマ線の順に遠ざかっていき、より波長が短くなっていく。X線やガンマ線は一般的に放射線という名で知られているものである

可視光線より長い波長のものは、人体に補助的作用を起こすものが多く、可視光線から近いものから言えば赤外線→電波→マイクロ波→超短波~極超長波の順に遠ざかっていき、より波長が長くなっていく。

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このように人間が5感で受け取れるものは、実はこの世界に現存する全てのものを認知できているわけではないということである。


実在するものの一部分しか認識できない人間は、現存する実在要素を全て考慮出来た上での発想ではなく、生活の中で感じ取れるものなどは偏った狭い世界観の中での決め付けに過ぎないということになる。

 

そんな中で、何の確証もない自分の価値観が絶対的に正しいと思い込んで生きてきていた今までの自分に心底、頭大丈夫か?と思った。

 

 

 


これに気が付いた時、私は今まで如何に愚かなことをしていたのかと思ったのと同時に、自分の今までの物事の見方や考え・発想の仕方を一新しなければと考えた。


まずは自分自身で認識できていないところはどこなのかを探し始めることからスタートさせた。

視覚的に言えば、背中や表皮より内部の人体。
聴覚的には、聞こえる範囲の狭さやモスキート音などの可聴域が存在するということ。
嗅覚的には、人間よりも犬の方が鼻が利く。
触覚的には、表皮上でダニや蚊がどこに居るかも細かく敏感に感じることができず、体内での異常にもある程度の進行や悪化がなければ痛みなどの表在化はしない。
味覚的には、前後の舌の感覚の状態によって同じものを食べても同じ味は味わえない。

 

 

 


・・・人間の感覚とは、なんと不確定要素が多いのだということを思い知った。


自分がこんな状況であるのなら、人との対話によっての自分の判断基準や物事に関する受け止め方は条件状況によってブレブレになる。

 

こんなことでは人が人の何を信用していいかなど確定要素は何もないじゃないか。

 

 

 

 

ここで一つの思想との接点を見つけた。

 

そうか・・・アドラーの言っていたすべての悩みは対人関係の課題である】というのはここから来ているのか。。。と。

 

 

 

 

 

※追記

#進撃の巨人 から学んだ要素がこの投稿には盛り込まれています。