伝えたいのに伝わらないのはなぜか
jhumindassociation.hatenablog.com
の続きです。
・他者意見を受け入れつつ、自己発信も受け入れてもらえる人間関係は実現可能か。
・あるいは、他者と自分の意見はいつまでも相容れないのか。
前回は、文末でこう締めました。
今回は発信する側の視点に立ち、
『伝えたいのに伝わらないのはなぜか』を
テーマに話を進めていきたいと思います。
人はそれぞれ、判断基準や価値観が違うというお話は
前回の投稿で触れました。
違う意見を持った同士が交流する時、
相容れる事が出来ないこと、
つまり相手に伝わらないことは、
仕方のないとあきらめることしかできないのでしょうか。
それを探っていくために、
自分の知識見聞とはいかなるものなのか、
について考えてみることからはじめましょう。
自分の判断基準は何によってできているのか
現代は自分の知りたい事がすぐに調べられ、
子供までもがインターネットを利用する程の情報社会になってきました。
うちの3歳の息子もiPadを使いこなし、
youtubeでノンタンやアンパンマンの動画を自分で探して見る事がもう既にできます。
気が付くと、私のyoutubeの履歴がそれらで埋め尽くされていて、
びっくりすることもしばしば。
時代の変化を感じざるを得ません・・・
私達が持つ情報は、大きく2つに分類出来ます。それは、
⑴ 実体験から得た『経験』
⑵ 人やインターネットなどで見聞きした自ら実証していない『不確実な知識』
実体験からの経験は、自分が経験した事を他者は経験する事が出来ないので、
理解はされても「正しい」と捉えられるかについては不安要素があるものです。
「交通事故に遭ったことがある」という人がもし複数居たとします。
交通事故という同じ経験をしていても、
怪我の状態やその時の心境は十人十色なのは明確です。
経験の正しさを主張しようとした場合、
人との違いを見つけ合って、
各々の持論展開で相手を否定する事しか方法がないので、
相容れない結果を生んでしまうでしょう。
自ら実証していない不確実な知識については、どうでしょうか。
かの有名な聖徳太子は、
私達の年代では男性であると当たり前に思い込んで来ました。
(そもそも性別は教えられていない)
が、実は女性だった説もあるとか。
それ以前に、本当に実在していた人物かも怪しいという考え方もあります。
『いい国作ろう鎌倉幕府』でお馴染みの、
1192年の鎌倉幕府のはじまりは、もはや間違っているという認識に変わってきました。
食べ物で言えば、
豆乳ダイエットなどで健康に良さそうな大豆は、実は体に悪いという説もあります。
※ あくまで個人的に調べた結果、インターネット上に書かれていたものを抜粋しています。
この情報が溢れる今の世の中、
何が正しくて、何が間違っているのか、
何を信じ、何を避けるべきなのか、
の判断が本当に難しくなってきたと思います。
報道は情報操作され、本当の事はひた隠しにし、
どうでもいい芸能ニュースなどを全面に出して風化させることなど
もはや誰もが知っている当たり前の手法です。
私達は、信憑性のない情報に躍らされ、
その分野に初めて出会った時の知識が、その人の当たり前になり、
実証してもいない不確実な情報を根拠に、
相手の意見を否定したり、覆そうとしたりしていることはないでしょうか。
日々タレ流されている情報の中で、
私達が、”絶対に”正しい答えを見つけ出すのは
不可能です。
(子供の頃、『絶対』という言葉を良く乱用して、
自分が人より知っている事が多いんだという事を、
自分より人生経験が圧倒的に多い親に使っていた事を思い出し、
なんて自分は可愛らしい子供だったのだろうと思い返していました。・・・
ネ…ネタですよ!)
前回の投稿にも書きましたが、
基本的に人との会話は、
『 自分以外の意見との遭遇によって分かる「 自分の判断基準 」を知る事 』
を繰り返して行っているのです。
ここで今日のお題に戻りましょう。
伝えたいのに伝わらないのは何故か。
様々な環境・状況・思想によって多様な答えが存在する中で、
あなたが手にしている情報は、果たして正しいものと言いきれますか。
芸能人や博士などといった人達の知識見聞なら、正しいでしょうか。
天動説から地動説へのパラダイムシフトは、常識が根底から覆りました。
AI( 人工知能 )の生活・職場への参入など、
20年前の常識では想像も出来ない現実が今あります。
人々があたりまえとしているものは日々更新されています。
ここで今一度、自らに問うてみてください。
自分は「万人が『正しい』と納得する確実な情報・知識
を持っている」という自信はありますか?
わたしは、
「そんな自信は全くない」と言いきります。
私が人に伝えている事は、
人類137億年の中でのほんの一瞬の、
明らかに偏った経験からのほんの1つの知識、経験、思想である、
と認識しているからです。
もし仮に「これが正しいんだ!」と思って人に伝えたとしても、
相手には相手の積み重ねてきた自分とは違う人生で
見聞き経験してきた積み重ねがあるので、
違った答えが返ってくるのは当然の事だと私は思っています。
誰だって、人の意見を無理やり押しつけられるのは、
気分のいいことではないのではないでしょうか?
ここまで考えてみて、
自分が人に伝わって欲しいと願う時、
何をすればいいのが見えてきませんか?
自分とは違う、相手の意見と出会った時、
受容する寛容さを持つための突破口が見えるのではないでしょうか。
「お互いの知識や物の見方を共有出来ること」
これがコミュニケーションだと私は思っています。
伝えたいことを伝えるためには、
私に"絶対"はないんだと、自己顕示欲を捨てて、
(たとえ、それが今の自分が持っている経験知識から見た時には、
考えられないほど真逆の意見だったとしても)
「相手から、自分にはないものがプレゼントされたという事実」
そこに感謝をする関係性が持てたら、
同時に相手も、私の意見を一つの参考事例として
受け入れてくれるのではないでしょうか。
相手に伝えたいのなら、まず相手から伝えられることを。
受け入れてほしいのなら、まず自分が相手を受け入れることを。
先に出来るようになってしまえば、
自ずと相手も同じことを返してくれる会話の循環が育まれます。
結果、
他者意見を受け入れつつ、自己発信も受け入れてもらえる人間関係は実現可能になります。
とは言っても、
なかなか人との対話の中で
自分の固定観念や判断基準を一旦置いてコミュニケーションを取ることは
簡単な事ではありません。
どうしても、人は習慣として自分の正しさから抜け出せずに、
相手との違いを探し、無意識に否定しながら会話してしまうものです。
今までずっとしてきたコミュニケーションのパターンを、
力ずくで、変化させるのは大変なことです。
全くそうは思えない。という相手の意見を無理やり受け入れなくては!
と思うことで、新たなストレスが発生してしまうこともあるでしょう。
人との優しい繋がり・関係性を自ら創っていくために必要なこと、
自分の固定観念や判断基準を一旦置いておくために必要な変化とはなにか、
そのポイントさえ分かれば、人は柔軟に変化する事が可能となると私は思います。