J humind association

人生をロールプレイングする/『生き直す』という新しい選択肢

『個が立つ和の共同体社会』という
新しい自分の在り方の創建と
優しい人との繋がり方

Proposal to live as RPG

【個が立つ和の共同体社会】の実現していない今、どんな問題が起こっているのか ~アドラーの一つの思想に辿り着いた~

前回の投稿

からの続きです。

 

 

 

日本人には、古来より【和心】というものが無意識的に備わっている。

和心を表す英語はない。日本特有のものである。

 

例をあげるならば、日本では震災に見舞われる機会が多い。

震災時、日本人は学校の体育館などで集団生活を強いられるが、そんな中でも人は助け合い、気遣い合うことができる。

 

 

だが、残念なことに和心を持っているはずの日本人であっても、それを発揮することは有事の時以外では1年でも数えるほどだ。

 

天災であるなら人は団結できることもある。


資本至上主義社会の現代は、弱肉強食。強いものが弱いものを喰らう。その世界でずっと生きていくなら、自分が喰われる覚 悟も必要だ。だが、それでいいのか。

 

勝者しか生き残れないのがこの世界であるのならば、人間は何に敗北するのだろうか。何を脅威とすれば人は団結できるのだろうか。

 

 

国家間の勝手な政治的な要因で起きる戦争ではどうだろうか。

 

軍国主義的な考えであれば、人が人のために死ぬことが当然だと思っているのなら、理解してもらえるだろう。たった一人の尊い命が大勢の人を救うこともあるということを。人類が人類を自分都合で殺されることを見過ごせるということを。

 

だがその連鎖が何を生むか。貴方はその一人になれるのか。もし自分が当事者になった時、それを見過ごす他者を見てどう思うだろうか。

 


今のこの世界は残酷だ。


人がどれだけ残酷な扱いをされているのを目の当たりにしても、「自分じゃなくて良かった」と思うのが普通なのであれば、 自分は誰からも救われないだろう。

 

だが、それを知っているからこそ優しさを強烈に感じられる。もう、人が優しいということは歴史から誰もがわかっていることだ。


だからこそ、同じことを繰り返すのはそろそろ終わりにして、今から何をしていくのかを考えていくべきなのだ。

 

人間は、苦しみを糧にして自分を変化させることはもう何百年もやってきた。私達は既存の見方とは違った見方でこの世界を見直す必要がある。

 

 

 


私達の目に見えているものと、実在する本質は違う。

 

人に見えているものは、人間5感の中の「視覚」がキャッチできるものだけに限定される。

 

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≪ここからは少し雑学的な要素なので、飛ばしていただいてもいいです≫

視覚でキャッチできるものは電磁波と呼ばれる分類の中でもは波長が一定内である「可視光線」しか受け取れない。俗に言う虹色をベースにした光のことだ。

しかし、電磁波には波長の長短による分類がある。
可視光線より短い波長のものは、人体に悪影響を及ぼすものが多く、可視光線から近いものから言えば紫外線→X線→ガンマ線の順に遠ざかっていき、より波長が短くなっていく。X線やガンマ線は一般的に放射線という名で知られているものである

可視光線より長い波長のものは、人体に補助的作用を起こすものが多く、可視光線から近いものから言えば赤外線→電波→マイクロ波→超短波~極超長波の順に遠ざかっていき、より波長が長くなっていく。

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このように人間が5感で受け取れるものは、実はこの世界に現存する全てのものを認知できているわけではないということである。


実在するものの一部分しか認識できない人間は、現存する実在要素を全て考慮出来た上での発想ではなく、生活の中で感じ取れるものなどは偏った狭い世界観の中での決め付けに過ぎないということになる。

 

そんな中で、何の確証もない自分の価値観が絶対的に正しいと思い込んで生きてきていた今までの自分に心底、頭大丈夫か?と思った。

 

 

 


これに気が付いた時、私は今まで如何に愚かなことをしていたのかと思ったのと同時に、自分の今までの物事の見方や考え・発想の仕方を一新しなければと考えた。


まずは自分自身で認識できていないところはどこなのかを探し始めることからスタートさせた。

視覚的に言えば、背中や表皮より内部の人体。
聴覚的には、聞こえる範囲の狭さやモスキート音などの可聴域が存在するということ。
嗅覚的には、人間よりも犬の方が鼻が利く。
触覚的には、表皮上でダニや蚊がどこに居るかも細かく敏感に感じることができず、体内での異常にもある程度の進行や悪化がなければ痛みなどの表在化はしない。
味覚的には、前後の舌の感覚の状態によって同じものを食べても同じ味は味わえない。

 

 

 


・・・人間の感覚とは、なんと不確定要素が多いのだということを思い知った。


自分がこんな状況であるのなら、人との対話によっての自分の判断基準や物事に関する受け止め方は条件状況によってブレブレになる。

 

こんなことでは人が人の何を信用していいかなど確定要素は何もないじゃないか。

 

 

 

 

ここで一つの思想との接点を見つけた。

 

そうか・・・アドラーの言っていたすべての悩みは対人関係の課題である】というのはここから来ているのか。。。と。

 

 

 

 

 

※追記

#進撃の巨人 から学んだ要素がこの投稿には盛り込まれています。