【個が立つ和の共同体社会】実現に必要な要素
前回の投稿
からの続きです。
自分とは何なのか、ここから考え直していこう。
自分の定義はいろいろな見方からできると思うけど、ここではこの2つで定義してみようと思う。
自分の認識できている『意識的な自分』と、自分で認識し難い『無意識的な自分』。
意識的な部分に関しては制御可能なので、今回は無意識にフォーカスしていきます。
一生、自分の無意識に気付けなくても生きてはいける。
でもそれじゃずっと、己で認識できている意識的な部分だけが自分だと言っているようなもので、【自分】とは自分の半分しか指していないと言える。
非常に勿体無い!!
どうせなら全部使いたいでしょ!?
人はちょっとしたことで、相手はこういう人なんだと強く決め付けてしまう傾向がある。
それは意識的に表現して伝えてることよりも、何気に出てしまっている自分すら気付かず、何故そうしてしまっているか説明することも難しい無意識的な非言語表現に目が行きやすいものである。
自分が意図して出している自分よりも、自分が知らずに出てしまっている無意識の自分によって、人が自分を決め付けるなど、こんな理不尽なことはないと思いませんか!!?
誰かに何か不快なことを言われても、何も言える状況じゃなく笑うしかなくても、表情や声の音などには不快であるということは出てしまうものです。
無意識的に出てる自分が、周りに合わせず、何にも縛られない、本心の自分なのです。
自分が何に反応し、どういった時にどんな表現をする傾向があるのかをまず知っていく必要があります。
自分がなぜ今それを思い、そういった表現で伝えているのかは、培ってきた人間性・人生観に依存するものです。それはほんの少しの言葉で理解できるものでは勿論ないし、相手の知識経験で測れるものではない。
無意識の言動で人にどんな自分を見せていたのかを知らなかったのは、無意識の自分を知る術を知らなかったからだ。
すべきことは、自分の無意識を深く理解するために、自分が今までにどんな心を養ってきたかを顧みて、自らの積み重ねてきた人間性を根底から知ることが不可欠である。
自分の心の形成の始まりは、親との関係性のスタート。つまりこの世に生まれたその瞬間から始まった。
自分の心を振り返ることは、子供の頃には到底思いつくものではなく、大人になってからしかやってみることを選ぶことはほとんどない。
ましてや人生の中で振り返りをやってみようという発想に出会える人も多くはないと思います。
結構大変な作業です。時間的なものよりも精神的な負担がかかることもあります。
自分の内臓が自分で見えないからレントゲンや医師に頼るように、自分ひとりで今まで見たこともない無意識に気付くことは難しいので、心の内に導いてくれる人や自分で見て理解できるような用紙的なものの力を借りないと整理できるものではありません。
思い出したくもないことに触れることもあるし、人に言いたくないようなことだってあるでしょう。
でもそこから逃げていては【自分】という体を操作するパイロット(心)は、いつまで経っても認識している制御可能な意識の自分と、陰でわからないように操作している同じ操縦システムを握った認識してこなかった制御不能な無意識の自分との操縦権の奪い合いをしているようなものです。
いわば無意識はダミープラグのようなものです。
ダミープラグに体の操縦権を独占される時、それは感情の制御が出来なくなったときです。
何も考えずに感情任せに生きていては動物と同じだ。人間であるのなら、それに加えてその時の自分の心に向き合うことをすべきだと思います。
面倒だし、見たくない自分との再会や、思い出したくもない汚点などに出会うこともあるでしょう。
でも、その経験をしてきたからこその今の自分の心の在り方なのです。
これは、やりたい人であれば誰にでも出来ます。
ですが人は出来るだけでは動きません。
動くためにはわざわざ理由付けが必要だからです。
私が理由をつけるなら、
自分の人生を自分で創っていく為に、己の心を知り、限界を知り、自分の無意識の成り立ちを理解し、今まで無視し続けてきた自分の中にある心の半分をしっかりと認識してあげて、自分の全部で人生を楽しんでいきたいから
とします。
だって・・・気付いてもらえないって淋しいことじゃないですか。。。?
もう一人のわかってあげられてない自分ですよ・・・?
他の誰がわかってあげられますか。。。
できるかできないかではない。
やるかやらないかだ。
やる以外の選択肢以外に、前進はない!!
今までの自分は半分だったことを認めることは、いろんな想いが邪魔をすることでしょう。
自分は精一杯生きてきたんだ!
自分の全部を100%使って必死に!!
だから自分にこれ以上別に自分のことで知らないことなんてない!!!
自分のことは自分が一番よくわかってる!!!!
言いたいことは痛いほどわかります。
私も勿論同じ発想でしたから。(そもそも発想にないことはこうして書けませんもんね)
でも、何かを変えることのできる人間は、大事なものを捨てることができる人だと思う。
何も捨てることのできない人には、何も変えることはできないと思います。
今までの自分(大事なもの)に執着するのもいい。
一生自分とその周りの環境という狭い価値観の中で生きていくのもいい。
だがその狭い環境にしがみ付くのなら、どんな危機に見舞われようともその環境以外のものの助けは何も来ない。
自分の外を取り入れられない度量しかなく受け入れられない者が、その恩恵を受けられないのは当然のことである。
変化せずして自分とその周りだけ大事にしようといくら考えても、自分が認識しているものとそれ以外が繋がっているということからは目を背けることはできない。
新しい自分の見えていない可能性がもし眠っているのであれば、知りたいと思いませんか??
でも勿論しなくてもいい。
でもそれを決断したのなら後悔はしないこと。
後悔の記憶は次の決断を鈍らせる。
考えることが怖くて、面倒で、放棄してしまい、決断を他人に委ねようとするだろう。
そうなってしまっては、自分の意志で人生を選ぶことなく、他人から与えられた選択肢という狭い世界で、人に利用されて死んでいくだけだと私は思っています。
いろんな問題に直面した時、そして事が終わった後で「こうしておけば良かった」だなんて何とでも言える。
その時は結果が想定できなくても選択をしなければならない。終わってみなければ誰も結果は分からない。
結果の想像の範囲は人によって違う。
そうなってしまって想像という概念は無いとも言える。
知識経験によってどんな結果になるのかを知っている人間と、知らない人間がいるだけのことだと思います。
私は、
私達は、生まれた時から自由だ。それを拒むものがどれだけ居ても関係ない。
どれだけ世界が恐ろしくても、どんなに人が信じられなくても、自分以外のものが自分の人生に責任は取ってくれない。
自らの足で進まなければ何も変わらない。
と思っています。
心の在り方の変化に練度があるとするならば、今の自分が無意識の理解や認識の外に出ることを考えたこともない人に基準を合わせるのは、もはや物事の捉え方が全く違ってしまっているので、今の私には無理がある。
その見方はもう何年もやってきたから勿論理解してるし、やろうと思えばできる。
でもそこを突破しからこそ、今まで生きてきた自分の心が如何に狭い領域だったのかがわかった。
例えて言うなら、山の麓にある村の中で生活していた自分が、山頂に上がって村を見下ろした時に、こんな狭いところで苦しんで生きていたのかと感じる小ささと同じようなこと。
自分の成長を促すためには、自分の今までの発想のベクトルを突飛なまでに飛躍させる必要がある。
でも、それは自分自身ではできない。
自分の発想以上のものは、自分からは生み出せないから。
だから私は、それを知ったからこそ、それを発信していこうと思いました。
だって、以前の自分より相当心の在り方に自由度が出来たから。
私は決して良い人ではありません。
良い人とは、自分にとって都合の【良い人】のこと。
皆さんにとって都合のいい人かどうかなんて私にはわかりませんから(´Д`;)
私は発信したいからしているだけです。
やりたいことしかやりたくないので(笑)
精神的に楽になることを身を以て知ったし、今までの心の在り方の厚い城壁が破壊された人同士の本気の人間関係性の循環が構築できると確信したから。
新しい社会構想の在り方に必要な要素として。
社会構想なんてものを発信するには、並大抵の決断ではありませんでした。
発言に責任も乗っかってくるし、否定されることも厭わない覚悟が必要です。
私の言っていることは、人によっては受け入れ難いものかもしれないです。
自分の得しか、楽しか考えていない人には、私の構想は邪魔であり、危険因子であると認識されるかねません。
周りにも心配されますが、この思想が現実化してきた時、殺される脅威に見舞われる可能性もあるでしょう。
ですが私は、皆さんのこれからの人生をより有意義なものにしたいという自己満足ではあるかもしれませんが、自分の命を懸けてこの思想を発信していこうと思ってます。
自分も含めて、全人類が生きやすい社会を創りたいから。
人で悩む人生を終わらせ、人と楽しむ人生に完全移行したいから。
誰かがやらなきゃ何も変わらない。
生きてるうちに最善を尽くそう。
そう思うから。