自分に行動制限してしまう理由① 【 自分の信念を曲げて、周りの人や環境に合わせすぎる】
あなたという人間は、この世でたった一人しかいません。
人生観は生活し得てきたものが各々違うので、
一卵性双生児であっても
全く同じ状況で同じ事情報を得るわけではないので
人格は似ていても違ってくるわけです。
そんな個性や価値観の違った人が集まるこの現代社会の中で、
義務教育で叩き込まれた『全体行動の合一が正しい』という刷り込みによって
個性や創造力、周りへの気遣いや自分の意見を主張するすらをも
《みんながしてないから》という理由だけで押し殺してしまう日本人が出来上がってしまいました。
集団生活を送る上では、足並みを揃える事はある程度必要ですが、
だからと言って自分の意見や感情を表に出すことを
場の雰囲気から勝手に自分が
『ここではしてはいけない』と思い込んで
無意識に自分を出すことを押し殺すことが習慣化していき、
それが長年続くと、自分の出し方すら忘れてしまい
いつしか自分で考えることなく周りに流されて生きることが
当たり前になっていってしまうのです。
皆さんは、ロボットではありません。
どこの誰かが作ったかもわからないような
『常識』『当たり前』『暗黙のルール』などに、
絶対的に従う必要はないのです。
【普通】に疑問を持つこと
過去誰かが敷いたレールに知らずに乗ってしまっている事にいち早く気付き
自分の人生を、自分で価値あるものにしていく為に
自分自身を発信していく事から
自分自身で人生を創っていく事が初めてしていけるのではないかと思います。
かと言って、いきなりその場をぶっ壊していては誰も受け入れてはくれません。
まずはひとつひとつ疑問を持つことから始め、
人に聞いていく事で共有していく事から始めていくというのも
一つの方法ではないかと思います。
私が考えるコミュニケーション論は、
『誰もが否定批判をすることなく、自分以外の人生観を持った人から出た一つの意見を、新しい発想概念として自分の成長材料に使う』
ということが1つの要素としてあります。
そんな人間関係社会を実現していく一環として、
現在進行中の志々島開拓によって造っていこうとしている
宿泊滞在型の自分探し村(仮称)で、
長年寝たきりで使っていなかった筋肉をリハビリで元に戻すのと同じように、
赤ちゃんの頃はしていてはずの自己主張を、
長年していなかったからこそ再びできるようにする為に
離島で現代社会に疲れてしまった心の療養をしつつ、
教育やカウンセリングなどではなく、そこにいる人とのコミュニケーションだけで
自分自身で気付いて行ける場所にしたいなと思っています。