自分と他者は違う、それを認める社会作りの為に必要なこと
ちょうど10日前
終電に乗って家まで歩いて帰っている途中
高速の高架下の道路を渡ったところにある公園で
亀に出会いました。
その亀は
力強く前に向かって進んでいました。
・・・車道に向かって…
見過ごすことは簡単な事です。
亀が居たことなど明日になれば忘れていたでしょう。
でも、周りに川も池もないような場所で、それでも力強く前進する『生きよう』とするその力強い意思のある生命が、もしかしたら命を落とすかもしれないと思ったとき、私はその人生に責任を持つ覚悟と共にその亀を家に連れて帰りました。
亀の生態や生活環境などをあらゆるところから情報を入手し、何が正しいか分からない中でも、多数の同じ内容のものと自宅の環境に合わせたものをピックアップし、その情報から妻もペットショップで亀を飼っている店員さんに出会い、何とか生活環境を整えました。
人間の育て方であれば、生態や生活環境のことなど調べずとも分かるのですが、自分と違う体感や食生活・世界の見方なので、調べなければ育てられないというのは当然のことですよね。
ご存知のように亀は変温動物。
人間の体感で寒ければ暖め、暖かければ冷やせばいいという環境下では非常にストレスがかかり病気になります。
しかも水陸両方の環境が必要な為、水槽だけ用意すればいいというものではないということなど、人間とは大きな違いがあることを知りました。
生態が違うからこそ違いを知ろうとする。
では、人間同士ではどうでしょう。
体のつくりは大なり小なり違えど構造は皆ほぼ同じです。
が、心は皆同じでしょうか。
価値観やものの捉え方や感じ方、発想力や状況によって出てくる感情などは、人によって全く異なります。
生活習慣や今までの人間関係から蓄積してきた『当たり前』も当然十人十色です。
でも何となく
【自分の当たり前が常識】
と思ってしまっていることはないでしょうか。
例えば、
《朝起きて歯磨きをする》
ということを例にしてみましょう。
私はまず朝起きてする事が歯磨きです。
寝ている間に乾燥した口腔内は雑菌の温床となっているので、そのまま食事を始めると全て体内に取り込んでしまうと嫌なので、食事や飲水の前に必ず真っ先に歯を磨き、食後は口を濯ぐようにしています。
ですが、食後のエチケットとして食後に歯を磨く人も居るでしょう。
入浴でも同じように、私は体を洗う前に湯船に入ります。洗体後に入ると一番風呂であっても浴槽に残った雑菌を体に付けてしまうという発想があり、入浴後にシャワーで流すだけでは取り切れないと嫌なのでその順序にしています。
ですがこれも洗体後に入るという方も勿論居るでしょう。私も子供の頃はそうしていました。湯船で温まった体のまま布団に入ると寝入りがいいですよね。
このように生活習慣とは、発想や主導権を握っている人の作った暗黙のルールなどによって変化し、それは必ずしも人と同じとは限りません。
どれが正しいわけでも間違っているわけでもない。
生きてきた境遇が各々違うので、統一されるはずがないのです。
学校・会社・社会では、そんな多様な価値観や生活習慣を持った人間の集まりなので、その中では決まり事を作られ、いつの間にかそれが普通になり、集団で遵守していく習慣から新人さんも自然に暗黙のルールとしてら従うシステムとなり、そのコミュニティの秩序や安全を守る為に役立っています。
・・・ん?…守る為?
ちょっと立ち止まって考えてみましょう。
皆さんは、今の多様なルールや決まりの一つ一つの意味をご存知で遵守されているでしょうか。
サラリーマンが仕事に行く時はスーツ。
これが当たり前。
就業規則にスーツ着用義務についての記載を見たことがありますか??
『仕事をするに適した服装』というような記載はあるでしょうが、一つに限定した記載はおそらくされていないことがほとんどではないかと思います。
それなのに、夏になればクールビズでネクタイの着用は義務付けないというような、ワイシャツネクタイもいつの間にかルールとして規定されているような扱いになっていることに気付きませんか??
誰が、何の為に、どんな理由で作ったルールなのか。
それも知らずに私達はいつの間にか自由を奪われ、それを考えることもなくなり、ただただ周りがそうだから自分もそうしている。
そんな状況に自分が置かれているということは、案外思ったより多いのではないか・・・
こんな発想は、少し考えたらそんな環境ばかりに自分が居るということに気付けるのではないでしょうか。
日本の義務教育では、世界でも評価される程に集団行動を重視した生活環境にあります。
集団と同じでなければ不安になる。
このような無意識の価値観を植え付けるほどに、集団を乱す者には厳しく、揃っていることに重きを置く。これが美学だと言わんばかりに。
いつしか子供の頃から人目を気にし、人と違うことが周りからも批難されるのを環境から学ぶことで、個性を出すことすら許されないと思い込み、ストレスを感じながらも我慢することを覚える。
これが今の日本人の基本の行動指針となっており、『守る為のルール』ではなく『知らない誰かの主観で作った、その人の意図を守らせる為に存在しているルール』ということに気付くこともないまま、集団行動から外れることを良しとしない精神が根底にあるので、元々あるものに疑問もなく、贖うこともない従順な人間を義務教育の頃から量産している。
これが今の日本という国です。
こっちの方が正しいと思うのに…
それは明らかに間違っているでしょ…
そんな発想も出てくるけれど、みんなの和を乱したり、白い目で見られることを恐れるあまり、仕方なく我慢して自分の意見を押し殺すことを強いられているのが、今の現代社会の姿そのものです。
1人1人、考える力もあれば、言いたいことだってある!
何もかもに満足している生活であれば、幸せを探求することなんてない!!
自由が欲しいから、拘束され我慢を強いられる仕事や学校から逃げたくなる!!!
違いを認め、縛るためのルールではなく、必要最低限の秩序を守るためのルールだけあれば、もっと人は個性を活かし、その中で生まれた新たな可能性を手に入れることができる。
日本は他国の技術を学び、モノづくりでは性能や安全基準で高い評価を受けています。それは集団行動の賜物であるのは間違いないですが、先進国の中でも新しい産業が生まれない原因は、そういったところにもあるのではないでしょうか。
新しい産業や新しい文化を発信していき、世界から認められる日本を育てるためには、まずは新しい教育の着手が必要だと私は考えます。
子供に1番発達する想像力と創造力。
これをもっと体や心で表現出来るような教育。
そして何よりも、人間関係の基礎であるコミュニケーションに関することや、思い込みや決め付けをすることのなく、多様性を自分のものとする柔軟性を育むことが出来れば、地域コミュニティの繋がりや地方の活性、そしてこれこそが日本ブランドとして誇れるものとなるのではないでしょうか。
人間と亀は違い、人間と人間も違う。
集団行動も大切ですが、それは違いを正すためではなく、違うからこそ気付き合い、高め合い、生み出していけるということにも目を向けていくことも必要ではないかと考えます。