幼児の自由さにみる問題解決の突破口
昨日、長男が3歳の誕生日を迎えました。
保育園を休ませ、久しぶりに家事も仕事もしない両親を独占してお出掛けしてきました。
息子を見て沢山の気付きがありました。
大人が当たり前としている「暗黙のルール的なモノ」や、誰が決めたかも分からない「常識」というものを、何も知らないからこそ無視して自由奔放に動き回る姿を見てこう思いました。
「こんな生き方をみんなで出来たらいいのに!」
いろいろな生活環境の中で必要なルールは確かにあります。
例えば、
「車が走っている道路を横断する事は、運転者にも歩行者にも危険なので十分に注意して渡ろう」
「山に入る時は遭難や虫刺され・切り傷などの危険があるので、明るい時に行動し、準備は怠らないようにしよう」
などなど、自分や他者の身の危険に関する決まり事は必要であると思います。
ですが、その他の決まり事は果たしてそれほど必要でしょうか。
ここで一つの例を上げましょう。
【心】とは大きさを規定する事は出来ません。誰もその大きさを見た事も感じた事もないからです。
私は《心とは可能性》と考えます。
敢えて、心の大きさを自分の体の大きさと同等だと規定してみます。
人間は多くの判断基準を持っています。しかもそれは生活環境・人間関係での気付きや教え・自分の経験値からの教訓など、人それぞれの人生の積み重ねで培われていくものなので、一人として自分と全く同じ判断基準の人は存在しません。
同じ事柄を考えてみた時にでも、もし同じ答えに辿り着いた人が居たとしても、その答えに行きつくまでの思考・論理展開までも同じである人は皆無と言えるでしょう。
心=可能性=自分の体の大きさ
と考えた時に、「私はケーキが好きだ」という判断基準を持っているとしましょう。
ケーキが好きな人は沢山居ると思います。そしてそれとは表裏一体で甘い物が苦手(嫌い)な人も居るでしょう。
自分をケーキ好きだと規定した時に、同じ思いの人とは仲良くなれますが、違う人の想いは理解出来ません。なぜなら「嫌い」と思ったことがないので、その経験をしていないから自分がケーキを嫌いだという基準で物事を考えた事が無いので、ケーキを避ける事など想像もできないでしょう。
ここで、ケーキを「好きは理解出来。嫌いは理解できない」で分けた事によって、心=可能性が半分になります。
私達は、多様なジャッジの繰り返しを、生きてきただけ・経験してきた分だけしてきました。果たして・・・。
今の心の大きさは、分けて、分けて、分けて、分けてきて・・・どのぐらいの大きさになっているでしょう。
ストレス社会・鬱病増加・引き籠り問題など、私達は数多くの難解に直面した現実で生きています。
なぜ今、このような状態になっているのでしょうか。
- 上司の判断基準の中で仕事をしなければいけない。自己表現の自由が許されない。
- 自分の想いを発信してもどうせ笑われるか否定されるから言えない。
- 悩みを打ち明けても上辺だけの同情だけで、本気で苦しんでいる心を理解してくれる人は誰も居ないんだ。
- 世間一般が知っている事でも、自分が経験してきていない事は分からないからこれから覚えようとおしているのに、「今出来ない」だけを強調され一方的に虐げられる。
- みんながしようとしている事を少しやり方変えただけでもっといい結果が出ると思うけど、みんながその気になっているから言わずにそのままやればいっか。
- 前にするなと言われてしなかったら怒られた。でもその事を言ったら口答えするなとさらに怒られた。私はどうしたらいいの?何を信じたら良いの・・・?
私達は、知らずに作られた様々な判断基準の中で、そして「集団」という自由の許されない環境の中で、生活していると思いませんか?
決まりを決めれば、順守と違反が同時に発現する。
なぜ決まりは必要なのか。それは『こうあるべきだという誰かの思想に強制的に合わせる為に創られたもの』、そして『人は指針を示さなければどう動けばいいのかわからないだろうと決め付けているから』と私は考えています。
【それではあなたもジャッジしているじゃないか!】というご意見も出てくるかもしれません。ですが、今を正しく判断する為には、不要な物を不要とハッキリ言う必要があり、現存する多くの決まり事を少しずつ見直すことが、不自由を強いられる人が自由に生きられる為の道筋であるという事を少しでもご理解いただければ幸いです。
冒頭で既出ですが、全ての決まりが不要とは思っていません。
共通認識として最低限の決め事は必要だと思っています。
ただ、守らなければ怒られる基準が不明確なものや、しねければならないという暗黙のルールの存在が多過ぎるのではないかということです。
例えをあげると、
「会社へはスーツで行かなければならない」
なぜか答えられる人は居るでしょうか?
社内規定には大抵、「仕事に相応しい服装」ぐらいの記述しかないと推測しますが・・・
「駅の階段で【上り優先】と書かれている場所で、下ってくる人が居る事に腹が立つ」
優先であり、下ってはいけないという意味ではないのにそれに不快感を感じる人も居ます。
以上のように、『決まりに「思い込み」と「こうあるべきだの決め付け」が上書きされた環境」というものが多数存在しているように感じます。
そしてそれは、半ば当然のように皆が従っている事を「常識」と規定し、それに順守しない者は虐げられる、そんな世の中になってしまっていはいないでしょうか。
【当たり前】とは一体なんでしょう。
ここには
- だれが考えてもそうあるべきだと思うこと。当然なこと。
- 普通と変わっていないこと(さま)
とあります。
もっと突き詰めてみましょう。
面倒かもしれませんが、たまには言葉の意味を知る作業を知るのも新しい発見があるかもしれません!
調べて意味は抽出しますので、ご覧になっていただくだけで大丈夫です。
【当然】とは
- そうなるのがあたりまえであること、道理にかなっていること。
- それがあたりまえであるさま。
【道理】とは
- 物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道。ことわり。
- すじが通っていること。正論であること。また、そのさま。
【正論】とは
- 道理にかなった正しい意見や議論。
道理に返ってしまったので違う面から見てみましょう。
当たり前の2項に出てきた【普通】とは
- 特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。
- たいてい。通常。一般に。
【通常】とは
- 特別でなく、普通の状態であること。世間一般にみられる状態であること。
世間一般の【世間】とは
- 仏教用語。世界と同じ意。
【世界】とは
- 歌舞伎・浄瑠璃で、戯曲の背景となる特定の時代・人物群の類型。義経記・太平記など、民衆に親しみのある歴史的事件が世界とされた。
- 自分が自由にできる、ある特定の範囲。
- 《〈梵〉lokadhātuの訳。「世」は過去・現在・未来の3世、「界」は東西南北上下をさす》仏語。
- このあたり。あたり一帯。
- 地方。他郷。
- 遊里などの遊興の場。
多くなってきましたね・・・そろそろ確認に迫ってきています。
世間一般の【一般】とは
- 広く全体に共通して認められ、行き渡っていること。また、そのさま。全般。
- ありふれていること。あたりまえ。普通。
- 特に違いが認められないこと。また、そのさま。同一。同様。
ここまでにします!キリが無い!!見ていただいている方、お付き合いくださりありがとうございます!!!
当たり前を掘り下げていくと世界まで行くとは思ってもみませんでした。
ですが、世界の意味は何を中心とするかで数多く存在していたことにお気付きでしょうか。
- 地球上のすべての地域・国家。
- 自分が認識している人間社会の全体。人の生活する環境。世間。世の中。
- 職業・専門分野、また、世代などの、同類の集まり。
- ある特定の活動範囲・領域。
上記4つだけでも範囲は異なります。
その中で、当たり前とはなんだったか
- だれが考えてもそうあるべきだと思うこと。当然なこと。
- 普通と変わっていないこと(さま)
考えてもみてください。
- 地球上のすべての地域・国家で、誰が考えてもそうあるべきだと思うこと。当然なこと。
- 自分が認識している人間社会の全体・人の生活する環境・世間・世の中で、誰が考えてもそうあるべきだと思うこと。当然なこと。
- 職業・専門分野・また世代などの同類の集まりで、誰が考えてもそうあるべきだと思うこと。当然なこと。
- ある特定の活動範囲・領域で、誰が考えてもそうあるべきだと思うこと。当然なこと。
・・・共通認識が取れるわけがない!!!!!
地域・国家・社会・環境・職業・専門分野・世代・活動範囲(領域)と分けている中で、当たり前を規定するのは困難過ぎると思いませんか??
大きい枠組みで考えると難しく感じますが、そもそもこれらを分けているのは他でもない『私達人間』ということです。
では人間関係という最小単位である《家族》にフォーカスして考えてみましょう。
我が家の3歳の長男は、家族のしてくれた一つ一つの行動全てに対して「ありがとう」を言います。それはうちの家庭での自然な在り方として身に付いていることです。
この子にとっての当り前は「してくれたことを純粋に受け止めて感謝する」が当たり前と思う環境で育っているからそうなっているのだと思います。
ですが成長してくるとどうでしょうか。
人それぞれ家庭環境は違うと思いますが、いつしか家庭以外の影響を受け、親が知らないうちに変化している事も多様にある中で、当たり前に規定が自分でも気付かないうちに「してくれたことをただ習慣化として捉え(られ)、感謝する事も忘れ(られ)、しかも+αがないと文句を言う(言われる)」ということに変わってきてしまったと自覚する時はないでしょうか。
おそらく誰もが経験する変化だと思います。もちろん私も例外ではありません。
ですが、されると腹が立ち、することには感謝されたい。むしろ感謝しろと恩着せがましく思ってしまう。
3歳でも出来る優しい心の循環が、なぜ成長と共に変わってしまうのでしょうか。
生まれたての新生児は、誕生したこの世界の事に対しては当然無知な状態です。
そこにいろいろな物に付けられている名前や使い方、親の当たり前やしてほしくないことなどの判断基準が、その子の判断基準として白紙の心にどんどん追記されていきます。
親・兄弟姉妹・祖父母・近所の人・生活環境・保育(幼稚)園の先生やクラスメイト・小学校の先生や友達・・・あらゆる人や環境下で教わり・注意され・みんながしている事に合わすなどし、子供の判断基準はどんどん作り上げられていきます。
ではここで問題です。
【判断基準とは、自分で作ってきたものでしょうか?】
私の答えはNOです。「関わる人や自分の居る環境での当たり前をインプットしてきた積み重ねの結果」が判断基準だと考えています。
それは今の世の中の仕組みの上では避ける事が出来ない人格形成の構図なのです。
私はそれに気が付いた時にある絶望を覚えました。
<私は、人生で何一つ自分で決めたことなど何もなかったんだ>と・・・
ある場所ではこうしなければいけない。ここではこうあるべきだからこうする。みんながこうしてるからこうだろう・・・など、私は用意された環境下の条件の中で生きているだけだという事に気付いてしまったのです。
道路がいい例です。
私達は当たり前のように道路を使い、左右直進後退などを自分で選択して行っているように思っていますが、そもそも「道路の上を走る」という決められた枠の中で動きを制限されているのです。一方通行はどうでしょう。ここから行ったら早いのに!と思った事はないでしょうか。道が無くて直線最短距離で目的地まで行けたらと考えたことはないでしょうか。
私達は便利や秩序を追及するが為に、知らぬうちにいろいろな制約の環境下での生活・人生を送っているということなのです。
知らず知らずに強制的にさせられている事でも、当然のようにしているから気付かないだけというものがあまりにも多い世界で私達は生きているのです。
判断基準・固定観念・普通・常識・当たり前・世間一般・・・
「誰が決めたものか分からないモノに人生を支配されているのかもしれない」と考えたら、絶望しませんか・・・??
私達は、もっと自由に、いろいろなことを選べると思うのです。
「学校の廊下で走ってはいけない」
人がぶつかると怪我をするからですよね。
では「走ってもぶつからないようにする為にはどうすればよいか」という観点から議論してみてはどうでしょうか。
既存の決まりではないといけないという事よりも、数多くの議論や人の想い、その他に参考になる意見も生まれると思います。
枠組みを取り払う為に必要なこと。それは、
【規則を作った私達人間が、規則を一旦なかったものとした状態で、ゼロの状態から問題を見る】ということが大切だと私は考えます。
問題というのは、私には問題であっても他者から見たら大した問題ではないということばかりであり、問題を問題としてしまっているのは自分であるということに気が付くと、人から意見を聞いてみようという思いが出てくるものです。
物理学者のアルバート・アインシュタインはこう明言しています。
「いかなる問題も、それを作り出した同じ意識によって解決することは出来ません」
だから、問題としている自分の意識とは違った、それを問題としていない別の人からの意見を自分に入れる必要があると思うのです。
その時に、私に何を言っても大丈夫という安心感が無ければ人は本音で話してくれることはないでしょう。
「安心して自分を発信する事は出来る環境創り」
これも人間関係では必要不可欠なことだと思います。
あの人は偉い人だから、忙しい人だから、怖い人だから・・・などという印象を持たれていては、人は心からの対話はしてくれないでしょう。上辺だけの付き合いに何の意味があるでしょうか。
ここでは静かにしなければいけないから、会議の時に下っ端の私が意見を述べるなんて、朝礼中に欠伸をしたらやる気が無いと怒られる・・・そんな雰囲気や悪習を続けることに意味はあるのでしょうか。
私は、選択肢を多様に持てる世の中にし、制約や秩序は最低限のもだけでいいと思います。
- みんながそうだからと固定観念に縛られたその場でのやり方しかできないのではなく、そのやり方すらも選択肢の一つとして他のやり方も選べる社会。
- そのやり方も一理あると、人の意見をジャッジせずに受け入れることが出来る寛容な心を持てる人間関係の構築。
- 当たり前に捉われることなく、お互い様の精神で向き合える優しい世界。
- 人間という高知性を持った生命体が、文化・人種・形態・知性などの違いを差別することなく、真の(調)和心を持って付き合っていけるALLWIN・ONE WORLDの世界。
理想だと思いませんか??
誰からも否定されず、自分を自由に表現でき、差別もない人間社会が作れた時、ストレスや鬱などで自分自身の空に篭る事が当たり前じゃなくなり、犯罪も、争いも、憎しみ合いもなくなるとは思いませんか?
理想を語るのは愚かだと思われる方も中にはいらっしゃるかもしれません。
ですが、理想を語って、それに向かって誰かが動かねば、それこそ只の戯言で終わってしまいます。
創造完了までは誰にも支持されないかもしれません。
そんな絵空事に付き合おうという方は少ないかもしれません。
ですが私は、一度心が死んで生まれ変わった新生児の心で、我が家の3歳児のような気持ちで、この世界をもう一度見て行きたい。もう一度何の判断基準や固定観念を持たない状態でこの世界を見たときに、多様な問題の解決策が見つかると思っています。
ですが、それには知識や土俵・人との繋がりが不可欠です。
私一人では到底このような大きなプロジェクトは完遂できない。
どうか、同じ想いの方がいらっしゃれば私と繋がっていただきたいです。
まだまだ若輩者の私ですが、熱情は常に持っています。
まずは小さなところから、小さなことを、コツコツとして行こうと思います。
この人間としての体が尽きるまで。