【個が立つ和の共同体社会】実現が、なぜ今必要なのか ~アインシュタインや先人達の想いに報いる~
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からの続きです。
人類はいずれ自分の外に出ることを考えなければならないと思う。
それは、今までの歴史の積み重ねで定義付けられてきた『自分』という壁を突破することと言い換えることができる。
自分とは何なのか。
どこまでが自分なのか。
これを改めて考えていく必要がある時代に突入しているようだ。
なぜかと言えば、今の問題意識は過去から今に蓄積によって生まれたものであり、既存の思考・発想で解決しきれないからこそ、問題として表在化してしまっているからだ。
アインシュタインの名言の中にある【いかなる問題も、それをつくりだしたときと同じ意識によって解決することはできない。】という思想から考えるならば、既存の現代人思考の外に出なければ、現存する如何なる問題も、解決できないところにまで来てしまっている、いうことであると考える。
今まで考えたこともなかった、自分の思考・発想の外の世界がどうなってるかを知りたい。
誰が創りだしたかもわからない常識や当たり前という狭い社会の中で生きてきた今までだったからこそ、その外があるという結論に達した今、それを知らずに問題だらけの既存のレールに沿った誰もがやっている人生の歩み方という見えない壁の中で一生を過ごすなんてイヤだと思った。
人間の探究心とは、誰かに言われて抑えられるものではない。
生を受けた瞬間から、人は死に向かって生きている。
生きていることが辛いなら、どうせ死ぬなら、なぜ今死なないのか。
答えは簡単だ。
生きてこの世に居たいから。
幸せになりたいから。
楽しい人生を過ごしていきたいから。
でも、今幸せかと言われたら、100%そうだなんて言いきれない。
だからこそ幸せとは何か、幸せになる為にどうしたらいいかを本気で考えようと思った。
生への執着が消えない限り、人類は諦めることはしない。
過去今までに幾人もの人達が、文字通り命を懸けて、未来の自分達に幸せの祈りを願って、託して死んでいった。
私達はそうやって、普段考えてもいないが先人達の想いを背負いながら今この世界に生かせてもらっている。
誰かがやらなければ、今まで死んでいった人達の想いが報われない。
このバトンを、自分の子供や今後生まれてくる未来の新しい命に、託したい形で渡せるように。
次回から、【自分とは何なのか】という根幹の部分について書いていこうと思います。
※追記
#進撃の巨人 から学んだ要素がこの投稿には盛り込まれています。
【個が立つ和の共同体社会】の実現していない今、どんな問題が起こっているのか ~アドラーの一つの思想に辿り着いた~
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からの続きです。
日本人には、古来より【和心】というものが無意識的に備わっている。
和心を表す英語はない。日本特有のものである。
例をあげるならば、日本では震災に見舞われる機会が多い。
震災時、日本人は学校の体育館などで集団生活を強いられるが、そんな中でも人は助け合い、気遣い合うことができる。
だが、残念なことに和心を持っているはずの日本人であっても、それを発揮することは有事の時以外では1年でも数えるほどだ。
天災であるなら人は団結できることもある。
資本至上主義社会の現代は、弱肉強食。強いものが弱いものを喰らう。その世界でずっと生きていくなら、自分が喰われる覚 悟も必要だ。だが、それでいいのか。
勝者しか生き残れないのがこの世界であるのならば、人間は何に敗北するのだろうか。何を脅威とすれば人は団結できるのだろうか。
国家間の勝手な政治的な要因で起きる戦争ではどうだろうか。
軍国主義的な考えであれば、人が人のために死ぬことが当然だと思っているのなら、理解してもらえるだろう。たった一人の尊い命が大勢の人を救うこともあるということを。人類が人類を自分都合で殺されることを見過ごせるということを。
だがその連鎖が何を生むか。貴方はその一人になれるのか。もし自分が当事者になった時、それを見過ごす他者を見てどう思うだろうか。
今のこの世界は残酷だ。
人がどれだけ残酷な扱いをされているのを目の当たりにしても、「自分じゃなくて良かった」と思うのが普通なのであれば、 自分は誰からも救われないだろう。
だが、それを知っているからこそ優しさを強烈に感じられる。もう、人が優しいということは歴史から誰もがわかっていることだ。
だからこそ、同じことを繰り返すのはそろそろ終わりにして、今から何をしていくのかを考えていくべきなのだ。
人間は、苦しみを糧にして自分を変化させることはもう何百年もやってきた。私達は既存の見方とは違った見方でこの世界を見直す必要がある。
私達の目に見えているものと、実在する本質は違う。
人に見えているものは、人間5感の中の「視覚」がキャッチできるものだけに限定される。
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≪ここからは少し雑学的な要素なので、飛ばしていただいてもいいです≫
視覚でキャッチできるものは電磁波と呼ばれる分類の中でもは波長が一定内である「可視光線」しか受け取れない。俗に言う虹色をベースにした光のことだ。
しかし、電磁波には波長の長短による分類がある。
可視光線より短い波長のものは、人体に悪影響を及ぼすものが多く、可視光線から近いものから言えば紫外線→X線→ガンマ線の順に遠ざかっていき、より波長が短くなっていく。X線やガンマ線は一般的に放射線という名で知られているものである
。
可視光線より長い波長のものは、人体に補助的作用を起こすものが多く、可視光線から近いものから言えば赤外線→電波→マイクロ波→超短波~極超長波の順に遠ざかっていき、より波長が長くなっていく。
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このように人間が5感で受け取れるものは、実はこの世界に現存する全てのものを認知できているわけではないということである。
実在するものの一部分しか認識できない人間は、現存する実在要素を全て考慮出来た上での発想ではなく、生活の中で感じ取れるものなどは偏った狭い世界観の中での決め付けに過ぎないということになる。
そんな中で、何の確証もない自分の価値観が絶対的に正しいと思い込んで生きてきていた今までの自分に心底、頭大丈夫か?と思った。
これに気が付いた時、私は今まで如何に愚かなことをしていたのかと思ったのと同時に、自分の今までの物事の見方や考え・発想の仕方を一新しなければと考えた。
まずは自分自身で認識できていないところはどこなのかを探し始めることからスタートさせた。
視覚的に言えば、背中や表皮より内部の人体。
聴覚的には、聞こえる範囲の狭さやモスキート音などの可聴域が存在するということ。
嗅覚的には、人間よりも犬の方が鼻が利く。
触覚的には、表皮上でダニや蚊がどこに居るかも細かく敏感に感じることができず、体内での異常にもある程度の進行や悪化がなければ痛みなどの表在化はしない。
味覚的には、前後の舌の感覚の状態によって同じものを食べても同じ味は味わえない。
・・・人間の感覚とは、なんと不確定要素が多いのだということを思い知った。
自分がこんな状況であるのなら、人との対話によっての自分の判断基準や物事に関する受け止め方は条件状況によってブレブレになる。
こんなことでは人が人の何を信用していいかなど確定要素は何もないじゃないか。
ここで一つの思想との接点を見つけた。
そうか・・・アドラーの言っていた【すべての悩みは対人関係の課題である】というのはここから来ているのか。。。と。
※追記
#進撃の巨人 から学んだ要素がこの投稿には盛り込まれています。
なぜ【個が立つ和の共同体社会】を実現させなければと思ったのか
人は、幸せになることを願ってきた。
人類史が始まって以来ずっと。
様々な発明をし、テクノロジーの発達をしていきながら。
今この瞬間が、過去最高に便利で住みやすいことは間違いないと思う。
だが、果たして今、全人類は幸せであると言えるだろうか。
長い年月をかけて追及してきたはずの幸せを、人は手に入れられていると言えるだろうか。
今のこの世界を見てみよう。
国の権力を握っている一部の人間が、自分の国以外を差し置いてでも自国が肥えることを考え、そしてその国に生きる一般市民は【国】という支配の中で、今までの積み重ねてきた『当たり前の生活』を何の疑問も感じずに不満を吐露しながらも生きている。
自分を定義する場合、自己都合によって変化するが「自らの体」という境界線が最小単位であり、自他を強烈に分けている。
考えや発想は、自ら何の立証もしていない不確実性この上ない外部情報から得た自分の知識経験を、あたかも真に正しいことだと自信満々で胸を張って主張し、他者の意見を否定しなければ自分を保てない。
自分の一部しか見ていない、どんな人生を歩んでどんな経験をしてきたかもわからない他者からの勝手な思い込みによって決め付けられた自分の人格を、そうかもしれないと安易に受け取ってしまい、自分自信を自分で決められない。
競い、争い、勝者と敗者を生み、勝者が力を付け、敗者は蔑まされる。
これが・・・長年求め続けてきた本当の幸せの形なのだろうか?
仕方ないと諦めて、今のままで死ぬ為に生きていくことが人類の望む【人生】なのか...
誰かが変えてくれるかもしれない。
淡い期待を誰もが、何百年もしてきた。
それで果たして変わっただろうか。
待っていて確かに生活がいくら便利になったし、これからももっと便利になるだろう。
だが、便利=幸せとは違う。
人間にとっての本当の幸せとは一体何なのか。
人類共通の幸せの定義とはどういったものなのか。
是非一度、自らに問うて欲しい。
そうしなければ、人類は人類によって滅ぼされる結果となるだろうと、私は思う。
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個が立つ和の共同体の概要説明は以下のリンクにあります。
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