人は何の為に多様なものと出会うのか
生きていればいろんな出会いに遭遇します。
人・本・風景・飲食物・お店・コミュニティ...
私達は日々の暮らしの中で、気に止めていないだけで、
多くの出会いを経験しています。
では、出会いとは一体何の為に行われているのでしょうか。
こんな発想自体普通の人はいちいち考えないと思いますが、
日常生活を今よりももっと刺激的にする為に、一旦深いところに入ってみましょう。
今はあなたの目の前、この画面よりも視点を上げてみると何が見えるでしょうか。
部屋かもしれない、外かもしれない、はたまた車内かもしれません。
その景色を見て、この世の中の全ての人が、
あなたと同じ発想を思い浮かべるでしょうか。
視覚的な慣れやその環境に対する先入観、どんな状況か把握できるだけの情報量などによって、人の感じ方は様々です。
映画や音楽が良い例で、創作者は自分の作りたいと思う作品に沿って創りますが、観る人にとってはそれは全く関係なく、その時の心境や状況がそれぞれ違う受け取り手の数だけ感想があり、それは監督や演者の思い入れとは全く異なったものとなります。
初めの疑問に戻りましょう。
出会いとは一体何の為に行われるのでしょうか。
少し間を開けますので、「これかな」と思う答えを出してみてください。
さて、どんな答えに辿り着いたでしょうか。
既出ですが、価値観は人によって異なるものなので、全員同じ答えになる事はありません。
ですから、そこに明確な答えというものは存在するはずが無いのです。
人それぞれが出した答えの数だけ、それが全て答えなのです。
人や本の解釈などの答えや定義を否定したくなるのは
『自分の価値観とは違うという事を伝えたい』
ただそれだけの行為なのです。
ただそこに、【自分の意見が正しい】という思想の強要が入りやすいので、意見の衝突が生まれて関係性の不和に繋がりやすい、という事が起こり得るのです。
以上を踏まえて、私なりに「出会い」を定義するならば
『 出会いとは、自分以外の意見との遭遇によって分かる
「 自分の判断基準 」を知る事 』
というものと考えます。
違う意見と出会うと反発・否定する気持ちが生まれるということは、それとは異なった意見を自分が持っているということを自ら知るということになります。
自分がどんな考え方・感じ方を持っているのか
それが出会いを重ねる意味と言えるのではないでしょうか。
では、他者と自分の意見はいつまでも相容れない関係性しか創れないのでしょうか。
沢山の考えや意見と共生共存する為には何が必要なのでしょうか。
その答えは・・・
【自らの判断基準を1度置いておけるか】
この1点に尽きます。
言葉で言うのは簡単ですが、それを実現する為には変化が必要です。
それが出来るか出来ないかで、コミュニケーションが劇的に進化します。
その方法を、私はお伝えできます。
『他者意見を受け入れつつ、自己発信も受け入れてもらえる人間関係』
そんな関係性の社会が当たり前になった時、ストレスも争いも無くなると思いませんか??
そんな理想社会の実現を目指して、私は日々活動しています。
ご興味ある方は下記からご連絡ください。
https://m.facebook.com/jhumindkito