J humind association

人生をロールプレイングする/『生き直す』という新しい選択肢

『個が立つ和の共同体社会』という
新しい自分の在り方の創建と
優しい人との繋がり方

Proposal to live as RPG

5.日本が世界に誇れる【J humind】 それは忘れられた日本の心

 日本は古来から武士道を重んじ、現代の日常生活でも行われている会釈や礼などは日本特有の文化風習であると言われています。

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 現在の五千円札に描かれている人物画が樋口一葉氏ですが、前五千円札には新渡戸稲造という人物が描かれていました。

彼の代表的な著書である「武士道」。その冒頭にこのように書かれています。

 

 『1889年頃、ベルギーの法学者・ラヴレー氏の家で歓待を受けている時に宗教の話題になった。ラヴレー氏に「あなたがたの学校には宗教教育というものがないのですか?」と尋ねられ、ないと答えると「宗教なしで、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と繰り返された。私はその質問に愕然とし、即答できなかった。』

 

 そうしたキッカケから彼は、現代日本の道徳観念は封建制と武士道が根幹を成していることに気付き、整理したものを書物という形にして世に出すことになったのです。

 

 その武士道の基本精神であり、尾張徳川家の蔵刀に白鞘にも記されていたという五常の徳というものがあります。

 

五常とは

1.・・・人を思いやること。優しさ・慈しみの心。孔子は、仁をもって最高の道徳であるとしており、日常生活から遠いものではないが、一方では容易に到達できぬものとした。

2.・・・利欲にとらわれず、なすべきことをすること。人助けの心。

3.・・・「仁」を具体的な行動として表したもの。礼儀・礼節の心。

4.・・・道理(正悪)をよく知り得ている人。知識豊富な人。

5.・・・友情に厚く、言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。

 

これに加えて武道を行うものに必要とされる徳目として

6.・・・自分を厳しく戒めること。

7.・・・勇気を持つこと。

 

 この7つの精神により、心の障壁を溶かして大和魂を呼び起こす。

これが我が社のロゴに込めた思いです。

1~5が降り注ぐ光

6・7が左右の心を支える手を表しています。

 

 ここで大きな問題に目を向けなければなりません。武士道を持って人と接するには、現代の日本人にはあまりにもハードルが高すぎるという事です。周りの目が気になり、自分を変化・進化させることに抵抗感を感じざるを得ない冷たい現代社会と対峙するには、【あるもの】の破壊が必要不可欠なのです。それは、《思い込み・固定観念・思考パターンからの脱却》です。自分・他者・環境などへのあらゆる自ら創り上げた固定観念と、それに知らずに影響されている事に気が付き、そこから脱却すること。それが何よりも必要なのです。

 

 言うのは簡単な事です。今迄生きてきて積み重ねられてきた様々なものに対する絶対的に変えられないであろう決め付け意識、思考パターンを解く事は容易な事ではないです。

 

 我々人類が今迄色々な物の発明を繰り返し、便利になり、豊かになってきたにもかかわらず、心が満たされないのは何故でしょうか。今の日本は、飲食し趣味に没頭する事は容易に出来るようになりましたが、いつまで経っても解消されない最大の問題が「人間関係」。これが解決されない限り、心が満たされることはありません。

 

 ですが、生まれた環境・教育環境などの歩んできた人生や外から入ってきた所持している情報は人それぞれ違い、それが各々の強固な固定観念として心を支配している限り、人と深く分かり合える事は不可能なのです。強固な固定観念を外し、何ものにも縛られずに、暗黙のルールや人に対する思い込み精神からも自由になれた時、新たな人生をそこからスタートできるのです。

 

 固定観念がない状態。それは自分が存在しない状態から生き直すということ。固定観念が無い、生まれたての赤子のような大自由な発想を持った状態から今ある問題を見た時に、それは問題ではなくなります。それを我が社はご提案していきます。

 Realive Conductor ( 生き直し方の紹介者 )として。

4.望まずして環境によって作られた我々日本人の最大の課題

 私達は両親(家族)に始まり友達・学校・会社など、人や環境にいろいろな影響を受けて今を生きています。「私」という一人称ひとつ取ってみても、日本語の多様な表現方法により、自分に対する表現方法も変化してきました。男性であれば、「○○ちゃん」→「ぼく」→「俺」などが一例ですが、表現方法が多様に存在する為に、TPOで使い分けをするという面倒な事も起こっています。

 

 そもそも、TPOで自分を変えなくてはならないのは何故なのでしょう。

 

・家では自由に行けるトイレ、学校で言い出し辛いのは何故だろう

・会社や勉強会・交流会に正装で出席しなければならないとは誰が決めたことだろう

・アドバイスされたことを命令や嫌味と捉えられてしまう

・「言われないと分からない」というが、言われるまで待たずに何故自分から聞かないのだろう

・「ダメだと思ってた」「怒られると思ってた」それを何故決め付けてしまっていたのだろう

 

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 初対面の方に対しても、相手の情報がない状態にもかかわらず、見た目や雰囲気や話し方などから相手を勝手に、過去の自分の経験や思い込みを嵌め込んで考えてしまうことはないでしょうか。知らない人に自分を勝手に決め付けられるというのは、きっと「される側」に自分がなった場合は不快に思われる事が多いと思うのですが、無意識のうちに他者に対してしてしまうのが今の日本人特有の思考パターンのひとつなのです。

 

 日本人が知らずに行ってしまっている思考・行動パターンはいくつかあります。これは個人差があり絶対ではありませんが、そのように思ったことはないでしょうか。

 

①話している途中に相手が時計を見たら、「もう帰りたいんだ」と思ってしまう。

②満員のエレベーターで「暑い…」と誰かが感想を言っただけなのに、同意見を持っている自分が「じゃあ乗らなきゃ良いじゃん」と心の中で批判してしまう。

③車の運転中に、自分も道を間違えて申し訳ないと思いながらも無理な車線変更をすることがあるのに、人にされると腹が立つ。

 

 挙げていけばキリがありませんが、こうしたことが複雑に絡み合った社会生活を送っていくのは、客観的に見た時に非常に生き辛いと感じるのではないでしょうか。

 

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 何故このような行動・思考をしてしまうのでしょう。それは一種の自己防衛と、無意識で起こる優越感と自分勝手な正当化が大きな要因と考えられます。①はもしかしたら帰りたいのではなく、あなたの終電時間を気にしてくれている優しさのかもしれませんし、只時間がどれぐらい経っているか確認したかっただけかもしれません。②では自分が不満も漏らさずに我慢できている事を、不満を漏らした相手に対して自分が強いと誇示したいという深層心理が働いていることも考えられます。③は自分勝手な思考としか言いようがありません。こういった思考・行動パターンが無意識で生じている背景には、私達がこの世に生を受けてきた時から心に刻まれてきた「教育」が根底にあるのです。

 

 日本の学校教育では、暗記教育が主流です。暗記教育が生み出す負の遺産、それは「一番初めに収集した情報が何にも勝る最高の情報と勘違いする」というものです。幼少期より、誰が付けたかもわからない単語の暗記を蓄積し続けてきました。それはいつしか習慣化され、さらに学校教育でも強化されることにより、「覚えたこと=正しい事」という間違った解釈を無意識にインプットしてしまい、自分とは違った意見を容易に受け入れることが出来ない柔軟性に疎い思考パターンが作られてしまう、ということです。①はまさにこれが当て嵌まり、過去にそのような経験があった記憶から、相手をそのように決め付けてしまった、ということなのです。順位を付ける教育方針も②に該当します。

 

 幼児期の言葉の覚え具合が早ければ他の子より賢い、などと勘違いする大人も沢山居ますが、身体的・精神的成長に個人差があるのは当然であり、他者がどうだから我が子がこうだと比べたり決め付けたりする事自体がナンセンスなのです。ですが、政府や地方の大人の勝手な物差しで統計による標準という基準を作り出した結果、優劣の差が必然的に生まれました。身長の高い者が偉い、低い人間は劣っている。強者は弱者を力で捻じ伏せる。こんな固定観念がどこかで作られてしまうのは、学校教育課程を通過してきたからなのです。身長の高低差はそれぞれに活かされる分野があり、力のある者は力弱きものを助けるのが日本人本来の優しさであったはずです。それを差別的に扱うことは非人道的であると思いませんか。

 

 精神面でも同等の事が言えます。学校で判断される学力評価は人間性のごく一部であり、人格全てではないにもかかわらず、それによって出来る出来ないを分け、人の本質を計るものではないと明言せずに子供達に「よく頑張った」「もっと頑張れ」などという言葉を、教師が無責任に発しているのです。学校で見せる子供の能力が全てでしょうか。友達との遊びの中でムードメーカーを発揮できる子や、誰よりも似顔絵が上手な子は評価されることは有りません。ですが大人が見るのは通知表の評価のみ。これでは子供が正当な評価を受けているとは言えないのではないでしょうか。

会社での評価もこれと同じ不満が生じてはいませんか。

 

 日本人が受けてきた教育は結果として、他者からの評価によって「私」という人格をいろいろな角度から決め付けられ、それを「自分」として存在させている。これが現代日本人の実態なのです。「自分がどういう人間だ」ということを、今迄自分が言われてきた言葉以外で表現・定義できる日本人が、果たしてどのくらいいらっしゃるでしょうか。それほど、他者・環境に無意識に合わせて生きてきてしまっていたということなのです。

 

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 周囲の当たり前、状況環境下での暗黙のルールの中でしか自分自身を表現できない、自由の全くない窮屈な生き方を強いられている現在の日本社会の在り方を打破しなければ、いつまでも真意を伝えられない状況に苦しみ、我慢を強いられ、ストレスに耐え、精神的な悩みを未来永劫持ち続ける生活を余儀なくされることになります。

 

 こんな社会を変えなければ!と思いませんか。

 もっと血の通った本来の人間の温かさを感じられる関係性を築いていきたいとは思いませんか。

3.学校生活で作られた「日本人」としての在り方と新社会人への適応

年齢を重ね、子は各々によって異なりますが保育園、幼稚園、小学校(以下「学校」と呼称)という社会環境へとフィールドを広げていきます。家庭環境で接する限られた人間関係の外に出ることになり、友達・友達の親・担任の先生など、今までの家庭環境での当たり前とは違った思想を持った人と触れ合うことによって、より様々な思い方や考え方の選択肢が増えていくステージに移行します。

 

 当然のことですが、友達や担任の先生も幼少時の人格形成を基本として行動しているため、価値観や物事の捉え方は自分とは異なります。 それによって、「自分とは違う人」という明確な境界線を引くことを無意識でしてしまうのもこれが初めてのことでしょう。

 

 学校教育とは、どのような学びの場なのでしょうか。

 

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 基本的な代表例をいくつか挙げていきましょう。

全体行動が基本

暗記学習

一問一答

学力査定文科省の学習指導要領に則ったチェック項目により決められる順位評価制度

⑤学校生活の主体は担任の主観に帰属する

 

一部ではありますが以上のようなものがあります。

 

 子育ての人格形成の基本は「家庭(家族)」に間違いなくあります。学校教育に入った時点で、国が定めた教育方針に沿った「日本人」としての在り方が養われていくのです。上記の代表例をご覧になって、どのようなことを思うでしょうか。現代社会で生きる私達は、これによく似たシステムの中での今も生活をしているとは思いませんか。

 

 例えば会社を学校教育の代表例に合わせて解釈して見ましょう。

 

①出勤時間は決まっている、退勤時間は決まっていない。皆と歩調を合わせないと疎まれたり妬まれたり、信頼関係すら失う。

②やり方を覚えて仕事をする。が、人それぞれの学習能力は違うにも関わらず、ある一定ラインを常に超えていないと怒られる。

③先輩に教えられるやり方をそのまま遂行したが結果が出なかった。怒られるばかりで他のやり方がわからないので途方に暮れる。

④結果が全てであり、成長過程にある将来有望な者を評価しないことにより、離職率が増え雇用問題が深刻化。

⑤上司のご機嫌取りが出世し、寡黙に仕事で成果を出している者よりも評価される。

 

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 もちろんこのシステムを改良・進化させ、良い職場環境を生み出している会社もあるでしょう。ですが、多くの会社は日本の学校教育をそのまま社会システムに反映し、いつしかその形態が「会社」という独裁的な環境設定に強制的に従わされる結果を生んでいることにお気付きでしょうか。学校教育過程を修了し、夢と希望を持って社会へ飛び込もうとする新社会人を待ち受けている次なる環境が、学校教育をさらに劣悪化した環境。会社が教える知識は、もはや自己成長を促す勉強ではなく、企業特化戦士を生み出す「詰め込み失敗量産型システム」であり、その人個人の人生を豊かにする心の教育ではない、逆に心を擦り減らす人生を歩ませるものになってはいないだろうか。

 

 「日本人」としての在り方。それは世界から見たらどのように見られているのでしょうか。ものづくりに関して言えば世界トップクラスでしょう。世界に発信しても恥ずかしくない、日本として誇れる企業も多く存在しているのも事実です。ですが、残念ながら大半ではありません。

 

 今の日本は、物には不自由しなくても心が満たされない鬱病大国となっています。少年犯罪や自殺者が増え、思い遣りを持った行動をするとなぜか白い目で見られるから優しさを出し惜しみしてしまうという悪循環を生んでしまっています。

 

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 人に優しい社会、温かみのある人間関係はどのようにしたら生まれるのか。

 その答えを本気で考えていかなければならない時が来ているのです。